色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(後編)
前回、色(物体)、受(色認識・RGB)、想(神経を通じて送る)、行(目的を把握)、識(知識の中から判断をする)の流れをご説明しました。
五感カメラを創りたいと思ったのは、この考え方からなのですが、ただ、私の理想とする五感カメラは、まだまだできていません(笑)
AIが識(知識の中から物体をどのように扱うか?)については、まだ時間かかるということで前編を結びました。
識は、人の体験から生まれる心の判断するもので、AIにはその体験ができないからです。
AIにはまだ、目的を理解する『選択』ができません。
物体の把握などは簡易にできるようになってきていますが、それが何に役立つから人がそれを生み出したのか? は理解していません。
ボールや、眼鏡、自動車の区別はできますが、それが何の役立つかの理解は、それを使う人の状況や環境を把握できなければならず、まだ、少し先の話になりそうです。
他方、計算により方向性を生み出せるものについては理解できます。
例えば、チェスや将棋のように相手の王様を倒すことがゲームの目的であれば、理解できます。数百・数千・数万通りの選択があったとしても方向性が分かっていれば、目的に到達することができます。
しかしながら、人の営みの中の目的は手法が見当たらない場合があります。『のどが渇いているから、飲み物が欲しい』という状況で喫茶店に入った場合、メニューの中から人は選びます。
『識』はこの選択となります。美味しいものが欲しいと言ってもあまりにも主体的過ぎます。プログラムでは判断できません。また、本人が思い描いた商品がなかった時は、システムは選択できません。
『識』は心の判断になり、『今日は今まで飲んだことのないものを頼んでみるか?』という気分を優先し選択することができます。
さて、五感に絡む表現として、六根清浄という言葉もあります。
これは、六根というのですから、6つの器官を指しています。眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)と意識です。
物体は『色(しき)』と表現されることは前回、ご案内した通りです
。色を把握するのが眼となり、色が脳に伝わり物体を認識することを眼識とも言います。
六根の五感の器官の関係を並べると眼は色、耳は声(しょう)、鼻は香(こう)、舌は味、身は触(そく)となります。
各々が眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という言葉が、各五感器官が神経を通じてその内容を把握した状態を表現しています。それを心で感じ取り何かを『思い』『行動を促す』のが『意識』となるわけです。
六根清浄とは、行動や思いに繋がる『六つの根』を清浄に保つ頃で、良い行いができるたとえとなります。
ここで『あれ??』と思うのですが、『人工知能』といわれる『脳の機能』というものは、どこにいってしまったのであろう?? ということなのです。
仏教においては、あくまで脳は、機能の一部でしかないのですね。五感機能の延長、想(=神経を通じて送られた情報)されて、行(=対象物が何であるかを把握・認識)されるのが、脳の機能と思われますが、ただの機能とされていて、社会的にAIと大騒ぎされるほどの重要視されたものではないのです
脳は、機能でしかなく、物事の判断は、道理を理解、世の中の法則である『法』に近づいた『意識』で判断することが大事であるとしています。
心が痛いと言って、頭を抑える種族は世界中を探してもいません。誰もが胸を抑えます
当社が目指すAIで『事件事故を未然に防ぐ』ことを実現させていくには、正確に精巧に映像などの人の五感の情報をCPU、もしくは整然とデータベース化されれば、実現できるものと感じています。
理由は、脳は、機能でしかないからです。確かに複雑で複合的な処理をすることはありますが、あくまで機能です。
精巧な情報があれば、正確な答えが導き出せるはずです。
AIは人としての意識(五感における体験をした知識と判断)を持つことはできません。
そのためにAIにおける『識』はあいまいなものになります。『識』は、最後は人が心を持って対処すべきです。
当社が小売業で実行しているAIカメラが不審者を探知して、通知し人が心(識)を持って『お声掛け』をして万引きを未然に防ぐ仕組みは、AIと人の行動の融合の第一歩の手法であると私は信じています。