ファインプレー
高校時代神奈川県下の名門野球部に所属していましたが、野球が下手な私は試合に出る術もなく、ベンチを温めるどころか、ベンチに入る気配すら無いままに下級生時代を過ごしました。
そんな私が、初めて公式の試合用のユニフォームに袖を通したのは、高校二年の秋で実質的な最上級生になってからです。その秋、低迷する野球部の立て直しに、新監督として土屋恵三郎さんを新たに迎えていました。土屋さんは、昭和46年に甲子園初出場初優勝に導いた捕手兼4番打者で、私達の大先輩でもありました。
新監督になっても私にはチャンスは巡って来ず、練習試合にすら一度も出番が無かったように記憶しています。そんな私がなぜ、ユニフォームを着ることができたのか? サッパリわかりませんが、ギリギリでユニフォームを貰えました。
私の公式戦のデビューは、2回戦か3回戦目かの少し勝ち進んだ時だったと思います。相手は都立の多摩高校でした。前半は拮抗した試合展開でしたが、味方のレフトを守っている選手がモタついた守備をしたために、監督に烈火の如く怒られて交代を告げられました。
「山内、守備に入れ」と言われ、同級生では一番遅いデビュー戦が廻ってきました。
実力があり、自信のある選手であれば、「待ってました」ということになるのでしょうが、私は自信が無いので不安しかありません(笑)
レフトの守備位置についても、打者までの距離が遠く感じ、自分の守備位置が本当に「ここで良いのか?」と自問自答するような状態でした。
私は練習ではライトを守っており、守備位置につくと
「ライン際はボールが逃げる」
「グローブの芯で捕れ」
と震える身体に自分で言い聞かせていました。
ライトのライン際の打球は守備から見ると、左に切れていき、レフトは右に切れていきます。普段とは逆の守備位置についているので全てが逆になるという点だけは理解しつつも、打球が来るのを恐れていました。
守備位置について直ぐのことだったと思います。まさに、恐れていたそれが飛んできました。瞬時に私の身体は、打球に反応できました。緊張状態は限界を超えていて、頭は機能しておらず身体だけの反応でした。
打球を追う時、私は打球から目を離して全力で走れます。これだけが私の唯一の野球センスで、打者が打った瞬間に打球の角度や性質が判断でき、落下地点に最短距離で走り出すことができます。打球を見ることはありません。
いつも必死に走って行って、良い頃合いに視線を上げれば、そこに打球が飛んで来ます。不思議と打球の方向を間違えたことも視線を上げるタイミングを間違えたこともありませんでした。
全力で走りながら視線を上げると、打球は地表スレスレのライン際を痛烈な勢いで飛んでいて、私の身体から逃げるようなドライブがかかっていることが分かりました。私の視線もなぜか地表スレスレの低いところにあります。その打球は、両手では補球できそうもなく、片手で目一杯腕を伸ばし切らないと届きそうもありません。外野でも片手で勢いのある打球を取ろうとすると、グローブの中でボールが弾み、打球がこぼれ落ちることがあります。
捕球体制に入った私は打球の勢いを殺せる親指と人差し指の間に打球が入るように、必死にグローブを伸ばしました。そしてその打球がグローブに入ろうとする瞬間、手首をクイっと曲げて私のグローブが芯でボールを捕らえ確実に打球の勢いを抑えるようにしました。そして、グローブ越しに左手は補給の手応えを感じました。「芯で捕れた!打球は絶対に落ちない」と掌の感覚が教えてくれるとホッとしました。
次の瞬間、外野の芝生にすごい勢いで胸が滑っていく感触と、地面を擦るザザーッという音に自分で愕きました。集中から解放された身体は、触覚と聴覚を瞬時に取り戻しました。私の身体はレフトの芝の上に止まりました。
どうやら、ライン際を襲うライナーを地表スレスレで、ダイビングキャッチをしたようだとそこで初めて気がつきました。頭からグランドに飛び込んだことすら自分で分からなかった。無我夢中とはあんなことを言うのだろうと思います。
「おおぉー!」とどよめく歓声がスタンドから起こったことを覚えています。
今思えるのは、必死の心の準備と無我夢中の意識が、良いプレーに繋がったのであろうということです。
集中力があれば凡人でも良いプレーができる。仕事でもそうなんだろうなと思っています。