心のふるさと
30年ほど前、都の西北 甲州街道沿いの西早稲田に「ふるさと」というカウンターだけの小さな一杯飲み屋がありました。
新宿のゴールデン街のような一杯横丁的な古びた木造建築が建ち並ぶ場所に「ふるさと」はあり、もちろん、出入り口はガラガラと、引き戸を開けて敷居をまたいで入ります。
現在は、東伏見に移転した野球部の「安部球場」や寮も、
私が大学2年生の時までは早稲田大学の校内やその周辺にあり、
私たち野球部員たちの生活の基盤は専ら西早稲田でした。
さて、「ふるさと」のカウンターは、「コ」の字にもならず、縦7席、横3席程度。
古びて色褪せた木の壁には所狭しと
歴代の応援部、野球部、バレー部、、、などの
体育会系卒業生の色紙や写真などが貼り付けられていました。
当時、プロ野球選手として、現役バリバリで阪神で活躍されていた
岡田さんの写真や応援部の色紙には、「酒の一滴、血の一滴」などの言葉が寄せられており、
バブル期の時代でもバンカラな早稲田がそこには残っていました。
1、2年生の時の私は、上級生の遊び道具要員だったので、
「ふるさと」に行く(拉致のように連れていかれる)のは苦痛で苦痛で仕方なかったのですが、
3年生程度から、少し落ち着いて自分の意志で行くようになりました。
練習が休みになる前日は、決まって「ふるさと」に集合して、
それから新宿の繁華街に遊びに行くのが野球部の常だったように思います。
なぜ、そうまでして、「ふるさと」にいくのかというと、
もちろん、学生が安く酒を飲めるのもありましたが、
それよりも、水戸弁のおやじさん(小川さん)がカウンターにいたからだと思います。
当時の体育会系は、馬鹿みたいに走らされたり、理不尽に殴られたり、
無駄に先輩の面倒を見なければならないことがたくさんあり、
そのようなことを酒の肴に「ふるさと」で飲んでいました。
「ふるさと」は、現役の選手達が、外では言えないことも言える場所で、
代々の先輩たちもそうして、酒を飲んできていました。
小汚い酒場で、学生が馬鹿みたいにデカい声で笑ったり、
熱っぽく話したり、楽しい時間でした。
飲んで、笑って、泣いて、楽しむ姿を小川さんは良く見守ってくれました。
小川さんは水戸弁で
「サブちゃん、そ~よ~。」
「そりゃ~違うよ~」
と相槌をしてくれました。
今思えば、大したことはない何気ないやり取りでしたが、
当時はそのやり取りにホッとさせられていました。
個人的な考えですが、日本人が指すふるさとという言葉には、
自分が生まれた場所という意味だけではなく、
自分の心の成長をさせる場所という意味もあるように思います。
学生時代の私にとって西早稲田の「ふるさと」で過ごした時間は、
心の成長に必要なかけがえのない時間であり、
まさに「こころのふるさと」でした。
そんな「ふるさと」を卒業してから10年ほどたったころ、
小川さんが癌で入院されたとの連絡が入りました。
野球部OBの先輩が、中心になり、入院費をカンパしたり
できる限りのことをさせていただきましたが
その後、他界されてしまいました。
小川さんのお通夜は、飲み屋のおやじのそれとは思えないほどの長い参列でした。
ふるさとを卒業した人達、誰もが小川さんに感謝を伝えに行きました。