鬼の連蔵
2020年1月14日、 早稲田大学野球部で監督をされていた故石井連蔵監督の野球殿堂入 りが報じられました。
石井さんは早稲田大学野球部の選手として投手で4番、 首位打者も獲得した一流選手であることは間違いないのですが、 野球殿堂に選ばれた理由としては、監督として1960年の『 早慶六連戦』を指揮したことが大きいようです。
1958年に25歳で第9代監督に就任すると、 同郷の大先輩飛田穂州ゆずりの精神野球を掲げ、 投手中心に守りの堅い野球を主導。 就任3シーズンでチームを大学選手権初優勝に導きます。
その猛練習は「千本ノック」「 ノックを逃げた選手を追いかけノックするうちにグラウンドを一周 してしまった」「 日が沈んでもボールに石灰をまぶしてノックを続けた」 などの逸話に代表され、眼光と厳しい顔立ち、過酷な練習から“ 鬼の連藏”と呼ばれました。
慶大と激闘を繰り広げた伝説の「早慶6連戦」は、 今でも語り草となっています。神宮球場は6試合全て満員で、 延べ36万人の観客が集まりました。 2勝1敗で勝ち点を挙げた早大は、 慶大との優勝決定戦に持ち込み、 2試合連続の引き分けの末に第6戦を制しました。
石井監督はのちに「日本中が注目し、 私自身もあの6連戦で野球の基本を勉強させていただいた」 と振り返ったそうです。
一度は、監督を勇退されましたが、 低迷する早稲田を立て直すために『最後の切り札』として、 1988年に第14代監督として再び野球部を指揮しました。
再就任された時、私は3年生で、石井監督から2年間、 野球を教わりました。
当時のことを振り返り、正直言うと、野球というより、『 魂と魂のやり取りの仕方』を教わったような気がします。 なかなか言葉では表現しづらいのですが、監督がグランド
にいると、 強烈な個性と存在感でグランドは常に支配されていました。 練習は、一瞬たりとも気を抜くことができません。 かすかな殺気さえ感じとれました。
ある日、外が雨で、 雨天練習場で練習をしている時の出来事でした。私は、 メインの一軍メンバーとは異なる場所で練習をしていました。 一軍から離れたところにいて、 雨天練習ということもあり少し集中力が欠けていたのかもしれませ ん。バッティングマシンでのバント練習で失敗をしました。 すると遠くにいたはずの監督が近寄ってきて、 一軍選手を私の周りに集め、烈火のごとく怒りだしました。
私にバントを再びさせ、さらに何度もさせます。 私は必死に成功させますが、それでも満足しない監督は、
『バットの芯を右手で隠すように持て』と指示しました。
バントは、バットの先端にボールを当てるなど芯を外し、 投球の勢いを殺してボールを転がすプレーです。 確かにバットの芯にボールは当てません。
しかしながら、 バットの芯と先端部分はほんの10センチほどしか離れていません 。
その芯を手のひらで隠し持つということは、 ボールが飛んでくる側に指を出し、バントをしろということです。 数センチ間違えれば、 140キロ以上の速球とバットの間に指を挟むことになり、 失敗すれば複雑骨折で、 野球生命が終わってしまうかもしれません。ありえない指示です。
ただ、その時の私には躊躇はありませんでした。ためらうより、 監督のほうが怖かったのかもしれません。バットの芯を持ち、 バッティングマシンのボールに対峙しました。
私は必死に基本にしがみついて、バットを目の位置まで高めて、 ボールを見極めてバントしました。ボールは先端にあたり、 勢いを殺したボールが地面を転がりました。
成功させた私に対して、監督は褒めもせず、『真剣に、真剣に』 と大きな声を私に放ち去っていきました。
私は三流選手で、 早稲田の野球部員として試合に出場する力量はありません。 私のような選手を試合に使うのは、 監督として勇気が必要だったと思います。 まったく打てない選手でしたが、 監督は使えるところだけを見極めて守備要員として、 20試合以上出場させてくれました。
ただ、4年生の秋になると、さすがに来期の戦術を考える中で、 守備しか使えない私は出場機会が少なくなっていきました。 魂のやり取りをする練習を繰り返す中で、 監督がどのタイミングで私を使おうとするかは、理解できました。 ベンチを温めながら、私は出場機会を待ちましたが、 チャンスが無いことは明らかでした。
しかし、 予想もしない時に監督が使ってくれた試合が1回だけありました。
それは、4年生の本当に現役最後の早慶戦でした。 現監督の小宮山悟が魂をちぎりながら投球を続けていたその試合は 、早稲田が隙なく勝っており、守備要員などは不要でした。 最終回を迎え、 私はベンチで神宮に別れを告げるものと思っていました。
ところが、9回裏の守備に入る時でした。 監督は思い出したようにベンチから出ると審判を呼んで、 守備交代を告げました。
『レフト 交代 サブ。』
その後に、『サブの苗字は何だっけね?』
と水戸訛りで近くの選手に聞いていました。
いつも緊張しかない外野の守備位置に、私は初めて、 ニヤニヤしながら踊るように走っていったことを覚えています。
そして、 レフトの守備位置からから見た神宮球場の風景を心に焼き付けまし た。二度と神宮のグランドに立つことのできない自分にとって、 心残りをなく卒業できるけじめができたように感じています。 あの最後の試合でグランドに立つことができなかったら、 私のこれからの人生の誇りが少し霞んでいたかもしれません。
石井監督の殿堂入りのニュースを聞いて、野球部時代のこと、 最後の試合のことなどがよみがえりました。
また最後の試合というと、こんなシーンも思い出しました。
何十年も経ち、監督も何度か代替わりした秋の早慶戦のことです。 均衡する試合は押し迫った早稲田の攻撃でノーアウト1塁。 そこに主力の4年生に打順が回ってきました。 彼にとっては学生生活、最後の打席になるであろうことは、 誰でも予測できるところです。打順は5番。 セオリーではバントかもしれませんが、私は4年生最後の打席なの
で監督は打たせるだろうと見ていました。しかしながら、 サインはバントでした。私は、 主力で活躍してきた選手が最後の打席でバントをするのかと思うと 少し心が痛くなりました。
その4年生は見事にバントを決め、転がした後は全力疾走し、 最後は一塁にヘッドスライディングをしました。 全力を尽くし悔いを残したくない気持ちを感じました。 4年生はベースを抱え込みながら少し時間がありましたが、 最後はさわやかに立ち上がり、ベンチもそれを讃えました。
良いチームだなと思いました。ただ、 選手に心残りが無かったことを祈るだけです。
心残りなく大学野球を終え、 新たな挑戦に向かう気持ちに切り替えることができた私にとって、 恩師・石井連蔵監督には感謝の思いしかありません。
野球殿堂入りが報じられたその夜、 私は初めて石井連蔵さんの夢を見ました。夢の中では、 監督は何もしゃべってくれませんでしたが、 監督の言葉を思い出しました。
『試合中一人で、守備位置につくのは怖い時があるんだ。 怖い時は、必死に基本にしがみつくしかないんだ。だから、 練習で必死に基本をやれ』
朝起きると、涙が頬を伝っていたことに気づきました。
※参照資料 Wikipedia、朝日新聞