サブロー通信

2020.12.21

二つの優勝 I am proud of you

11月8日(日)早稲田と慶応は、すべてを賭けた優勝戦に臨んでいた。ともに勝ったほうが優勝という試合で、9回2アウトまで慶応が2-1のスコアで勝っていたが、早稲田・8番打者の蛭間の一振りは、バックスクリーンに届く2ランホームランで逆転。伝統の早慶戦にふさわしい劇的な試合で早稲田が46回目の優勝を飾った。

他方、同時期にも他の六大学リーグで優勝したチームで争う横浜市長杯争奪 関東地区大学野球選手権大会がおこなわれていた。首都大学リーグ、神奈川大学リーグ、千葉大学野球リーグ、東京新大学野球リーグの上位2チームが争い、関東1位を決めるもので、紙一重の戦いをトーナメントで勝ち進まなければならない。見事に優勝を決めたのは、神奈川六大学の桐蔭横浜大学だった。

本来であれば、横浜市長杯で優勝した桐蔭横浜大学と東京六大学で優勝した早稲田は、大学野球の全国大会である明治神宮大会に出場することになるはずだったが、今年はコロナの影響で中止されてしまった。

この二校が全国大会である明治神宮大会に出場し、ともに試合をするのを日本で一番楽しみにしているのは、私だと思う(笑)。

桐蔭横浜大学の斎藤監督は、高校時代の野球部の同級生で、早稲田の小宮山監督は大学時代の同級生だ。しかも、3人とも二浪して大学に入っているので、学年も3人とも一緒(笑)

二人の監督の活躍は、大学野球の楽しみを増やしてくれている。

早稲田のグランドで毎年、桐蔭横浜大学と早稲田は練習試合をするので、必ず、見に行っている。試合後、小宮山・齋藤両監督と弁当を食べながら、談笑するのが1年に一度(笑)の習慣になっている。

この二校が共に激戦のリーグ戦を勝ち抜き、優勝し、更に一度でも負ければ終わりのトーナメント方式の全国大会において試合をする確率をAIがはじき出したら、とんでもなく低い数字になるだろう。ただ、その確率論とは別に、かなり早い段階で、この二校が、全国大会で相まみえるときが来るだろうと、なぜか安心している。共に負けなしで、勝ち進めば、必ず、戦うときが来るからだ。

それを信じさせる二人は、素晴らしい。

優勝、おめでとうございます。

2020.11.30

色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(後編)

前回、色(物体)、受(色認識・RGB)、想(神経を通じて送る)、行(目的を把握)、識(知識の中から判断をする)の流れをご説明しました。

五感カメラを創りたいと思ったのは、この考え方からなのですが、ただ、私の理想とする五感カメラは、まだまだできていません(笑)

AIが識(知識の中から物体をどのように扱うか?)については、まだ時間かかるということで前編を結びました。
識は、人の体験から生まれる心の判断するもので、AIにはその体験ができないからです。

AIにはまだ、目的を理解する『選択』ができません。
物体の把握などは簡易にできるようになってきていますが、それが何に役立つから人がそれを生み出したのか? は理解していません。
ボールや、眼鏡、自動車の区別はできますが、それが何の役立つかの理解は、それを使う人の状況や環境を把握できなければならず、まだ、少し先の話になりそうです。
他方、計算により方向性を生み出せるものについては理解できます。
例えば、チェスや将棋のように相手の王様を倒すことがゲームの目的であれば、理解できます。数百・数千・数万通りの選択があったとしても方向性が分かっていれば、目的に到達することができます。
しかしながら、人の営みの中の目的は手法が見当たらない場合があります。『のどが渇いているから、飲み物が欲しい』という状況で喫茶店に入った場合、メニューの中から人は選びます。
『識』はこの選択となります。美味しいものが欲しいと言ってもあまりにも主体的過ぎます。プログラムでは判断できません。また、本人が思い描いた商品がなかった時は、システムは選択できません。
『識』は心の判断になり、『今日は今まで飲んだことのないものを頼んでみるか?』という気分を優先し選択することができます。

さて、五感に絡む表現として、六根清浄という言葉もあります。
これは、六根というのですから、6つの器官を指しています。眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)と意識です。

物体は『色(しき)』と表現されることは前回、ご案内した通りです
。色を把握するのが眼となり、色が脳に伝わり物体を認識することを眼識とも言います。

六根の五感の器官の関係を並べると眼は色、耳は声(しょう)、鼻は香(こう)、舌は味、身は触(そく)となります。
各々が眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という言葉が、各五感器官が神経を通じてその内容を把握した状態を表現しています。それを心で感じ取り何かを『思い』『行動を促す』のが『意識』となるわけです。

六根清浄とは、行動や思いに繋がる『六つの根』を清浄に保つ頃で、良い行いができるたとえとなります。

ここで『あれ??』と思うのですが、『人工知能』といわれる『脳の機能』というものは、どこにいってしまったのであろう?? ということなのです。

仏教においては、あくまで脳は、機能の一部でしかないのですね。五感機能の延長、想(=神経を通じて送られた情報)されて、行(=対象物が何であるかを把握・認識)されるのが、脳の機能と思われますが、ただの機能とされていて、社会的にAIと大騒ぎされるほどの重要視されたものではないのです

脳は、機能でしかなく、物事の判断は、道理を理解、世の中の法則である『法』に近づいた『意識』で判断することが大事であるとしています。

心が痛いと言って、頭を抑える種族は世界中を探してもいません。誰もが胸を抑えます

当社が目指すAIで『事件事故を未然に防ぐ』ことを実現させていくには、正確に精巧に映像などの人の五感の情報をCPU、もしくは整然とデータベース化されれば、実現できるものと感じています。
理由は、脳は、機能でしかないからです。確かに複雑で複合的な処理をすることはありますが、あくまで機能です。
精巧な情報があれば、正確な答えが導き出せるはずです。

AIは人としての意識(五感における体験をした知識と判断)を持つことはできません。
そのためにAIにおける『識』はあいまいなものになります。『識』は、最後は人が心を持って対処すべきです。

当社が小売業で実行しているAIカメラが不審者を探知して、通知し人が心(識)を持って『お声掛け』をして万引きを未然に防ぐ仕組みは、AIと人の行動の融合の第一歩の手法であると私は信じています。

2020.11.27

色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(前編)

アースアイズの事業テーマは、抑止・予防です。事件・事故を未然に防ぎたいという思いで創業しました。
AIカメラはあくまで、その目的を達成させるための手段にすぎません。
創造されるAIカメラは、五感機能を兼ね備えたものが必要であると思いました。
それは、人間が危険を察知するのに必要な機能だからです。
人工知能といわれるAIを人間の部位に譬えると、脳ということになるでしょう
人間の脳は頭蓋骨の中にあり、外界の接点・情報の取得は、五感によるものしかありません。つまり、見る・聞く・味わう・嗅ぐ・肌で感じるなどの機能がなければ、脳の成長はありません。
脳へのアクセスがなければ、本能部分しか機能できません。人としての営みは、ヘレンケラーのサリバン先生のような人が必要です。
仮に、五感が優れていても、良いことばかり聞けば、その方向に、悪いことばかり聞けば、その方向に人は判断し進むだけです。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだと思います。
AIも同じことが言えます。AIに外観の接点である映像、音声、音源、におい、温度などを正確に伝えることができれば、その内容を把握できます。今のAIシステムは、まだまだ、誤検出があります。これは、AIの能力が低いのではなく、AIにとっては、情報があいまいで、足りないためです。人間との違いは、あいまいなデータでも、膨大な量で補完して、学習機能を高めることができるということです。人間は長年に蓄積された経験で判断しますが、コンピュータは、短期間で膨大な量を黙々と24時間処理をして学習してくれます。ただ、これは、コンピュータが処理をするために必要なもので、人間の経験値を補うものではなく、あくまで、『検出するため』の情報です。五感経験値を持っていないAIは1万枚もの写真を必要としていますが、あくまで、それは、色情報から判断した客観的な物体でしかありません。人間の犬と戯れた五感経験で覚えるものとは、まったく次元の違うものです。
仏教では、人が物を把握する流れとして色受想行識として表現されています。色・受・想・行・識でおのおの意味があります。
色は、物体そのものを意味します。世の中の物は『色』と表現されます。カメラの分野でも映っている物体は色の光の三原色RGB(red、green、blue)の色の濃淡で、白や黒も表現されているだけで、物体はあくまで色だけで表現されます。
受は、目が物体を視覚で捉えることです。例えば、ペットボトルを目で捉えることが受です。
目の網膜にその物体が映し出されるだけです。この時点で、受は何も物体区分をしていません。客観的に物を捉えるだけです。
想は、その『受』された情報が、神経を通じて脳に送られることを想といいます。脳で、何か物体を考えることを想像というのは、送られた物体の像を想うことですね。
行は、その物体の用途・内容を把握することです。ペットボトルは、水を入れるものであるという存在の意味を把握します。人間が作った人工物には、全てのものに目的があり作られています。
そして識は、そのペットボトルを利用して、自分が何に使うかを判断することです。のどを潤すのか? 人に飲み物を渡すのか? また、水を汲む道具として活用するのか? 自分の経験、知識からどのように活用するかを考えて、判断をするのが、『識』となります。
仏教では一つの間違いもなく全てのことを把握し、より良い方向に導いてくれる人のことを『善知識』といいます。『識』は、よりよい判断をするための経験値といえると思います。
カメラに、上記の色・受・想・行・識の5段階があるとしたら、受・想しかありません。物体を画面に映し出すだけのものです。映し出されたものの判断『行』『識』は、それを見た人間に任せるのがカメラのミッションとなります。
そこに、AIカメラなど脳が少し加味されてくると、色・受・想・行まではできつつあると言えますが、それを経験の中から活用する『識』まではできていないというところだと思います。
AIカメラは、受で映像(画像)を把握して、脳に送る(想)ことで物体(色)を認識します。物体を認識できれば、その用途(行)は(データ上)理解できます。
もし仮に、物の理解・勉強するだけ、単語を覚えるだけであれば、色・受・想・行までで目的は達成すると思いますが、『識』は人が行動するための知識を活用することです。コンピュータが識を意識できるようになるのは相当先の話だと思います。(次回の後編に続く)
2020.11.02

さぁ 早慶決戦だ 伝統の血

1988年 石井連蔵監督は、早稲田の第14代監督として26年ぶりに再就任しました。私は大学2年の冬、3年に進級する年です。
石井連蔵監督のその厳しい練習は、当時の私たちにも語り継がれていました。炎のような鋭いノックの嵐で、それを受ける選手が、じりじりと後ろに下がってしまう。それを追い詰めるように監督は一歩一歩、前に出る。そのうちに、ノックをしながら、グランドを一周してしまった(笑)とか、、、練習中に42.195キロを走らされた。。。とか、その伝説には、尾ひれ背びれが付いているとは思われますが、とにかく伝説中の伝説の監督です。
その人が、低迷する早稲田の切り札として26年ぶりに再就任されることになりました。

石井連蔵さんが監督になられるときは、確か、雨か雪か? が降っていて、東伏見の食堂で石井連蔵さんを迎えることになったと記憶しています。私たち選手は、その伝説の人のお話を興味半分、恐怖半分で席について待っていました。当時、OBの話はとにかく長く、前監督のお話もとても長かった(笑)ので、選手はその部分でも覚悟をして待ち構えていました。
石井連蔵監督は、現れるとお話をし始めました。
その姿は、大柄なお姿とは裏腹に、控えめで我々に気を遣っているようにも見えました。
ただ、その言葉は、はっきりと伝わりました。
『君たちには、早稲田の血が流れているんだ。私にも、君たちにも。同じ血が流れているんだ』
早稲田の血という言葉を意味はすぐには把握しづらい言葉でしたが、勢いは理解でき、頷いていたのを覚えています。新監督のお話は良い意味で期待を裏切り、ほんの数分でした。
後に石井連蔵監督が、TVのインタビューに応えている映像を観ました
聞き手の人が、『昔の選手と今の時代の選手は、やはり違いますか?』という質問に対して
『今も昔も変わっていませんね。それぞれ伝統の血が流れている。いつの時代でも流れている。早稲田もやはり、早稲田の血が流れているのです』と応えています
さらに聞き手の『早稲田の血とは何ですか?』という質問に対して
『やはり、一生懸命に野球をやろうじゃないかと。真剣にやる人だけが持てる特権は、分厚い壁なのですよね。それを自分の力で破っていこうと。それが早稲田の野球だし、もし仮に監督に仕事があるのであれば、そのような壁を作る環境の整えてあげることが監督の仕事です。』と応えていらっしゃいました。
早稲田の血を引き継ぐ、私の同期の小宮山監督が、この秋、負けなしの早稲田と負けなしの慶応で優勝を競い合います。
私たちの血も湧かしてほしいと思います。
2020.10.12

あり得ないなんてあり得ない(均一化させる罪)

人は確かなものが大好きです。特に会社や仕事の分野になってくると、確かなものを追いがちです。

ただ、確実なものを追い求めると、変化を嫌うことにつながりやすくなります。私は、これが日本のDXが遅れている要因の一つだと思っています。

確かなものを求める心は、自分を一般的なことや『こうあるべきだ』と当てはめていく傾向があると思っています。

先人の言い伝えを学ぶことは、大事なことであるのですが、自分のシチュエーションが本当に同じ環境になっているのかの確認が必要です。

 

想定外、予想外のことは、必ず起こります。今回のコロナも、大型台風も、地震も想定外のことが毎年起こっています。

これを統計で算出していたのなら、世の中はもう少し安定した社会になっていたでしょう。

 

確かなものなど、存在しないのに平均的なことを不変なことと思いがちで、そこに安心を求めます。

場合によっては、他人(他社)が実行していることを受け入れるとそれが確かものであると思いがちです。自分が個性を否定されて均一化されることは拒むのに、飛びぬけて『変な人に』なることも恐れます。

 

人間を均一化するのは実際には難しいことです。

 

プロ野球選手は、当然、野球の才能があり、それでプロとして仕事をしているのですから、平均どころか飛びぬけた存在でしょう。しかしながら、彼らにピアノを弾かせたら平均よりも下手かもしれません。タクシーのベテラン運転手であれば平均より、間違いなく道を知っているでしょう。また、絵の才能などといったら、平均との比較などは、まったく意味がないことでしょう。人を均一化するなどは、あまり意味のないことであると思います。

 

人が均一化を求める、月並みかを称賛するのは、自分の努力がどのような結果に行きつくのか分からないために、その勝負に賭けられないというのが実情なのでしょう。

つまり、そこに努力の結果を見せることがとても重要になってきます。

 

ダイエット効果を目で見て分かるようにした『ライザップの手法』は日本の社会に大きな影響を与えていると思います。食事制限と運動が、ダイエットに効き、それは、自分の努力で変えられることを目で分かるようにしました。

 

それ以前までは、ダイエットは、『体質によるもの』(それはそれであるとは思いますが)という概念が根強く、努力をしても万人に受け入れられるものではないと思われていたし、何よりもパーソナルトレーナーなどつけてダイエットをするなど芸能人以外考えられなかったのが、今では、一般人でも当たり前になりつつあります。それを信じてもらうためにも彼らは、『返金制度』まで設けました

今では、誰でも努力をすれば、痩せられるというのが、社会の常識として受け入れられてきていると思います。

人の目に何を映し出すか? 不確実なことが現実になれば、それは、確率論ではなく、現実として受け入れることができるようになると感じています。

2020.09.30

『しもやけ』と『DX』

私の子供の時に住んでいた神奈川県の相模原市は、神奈川県の湘南・海イメージとは程遠く『さがみっぱら』と呼ばれ『原っぱ』だらけのところでした。冬は、庭のバケツの水が必ず凍っており、地面は霜柱が立っていました。

子供の時は、まったく気にしていませんでしたが、当時の小学生などが履く靴などは、たぶんかなりの安物で、冬場に凍った水たまりなどをバシャバシャ走りまわる私たちは、靴下がすぐにビショビショになったものです。

『足が冷たいなぁ』と思いながらも、そのまま、ほっぽりぱなしにすると足の小指が赤い芋虫のように腫れあがり、かゆくなりました。特に気にしていませんでしたが、それを見た父親が『しもやけだな。しもやけは血行障害だよ。寒くて血の巡りが悪いんだ』と言い、石油ストーブの前で揉んでくれたのを覚えています。最近の暖冬では、『しもやけ』などという言葉は聞きませんし、『使い捨てカイロ』などもあまり使わないような気がします。

昔の寒さがしみる冬は、身体を温める衣類などを渡すのが一つの愛情表現だったように思います。例えば、当時はマフラーや手袋はもちろん、セーターですら買うものではなく、手編みだったように思います。寒さをしのぎ、温かさで身体を包み込むマフラーや手袋は、愛情表現の象徴のようなものでした。

小学生の頃、あまり手袋などを身につけない子供でしたが、母が作ってくれた手袋はたまにはめていたような気がします。残念ながら、すぐに指の先に穴があくのですが、気にしないで、はめていました。

学生時代のバブル期あたりから、手袋やマフラーはお金で買うものとなり、現在では、かなり安価でどこでも買えます。1シーズンの使用程度でも使い捨てにしてしまう場合もあります。そうなるともう愛情媒介の象徴とは言い難いものとなりました。やさしさを媒介する『もの』ではなく、単に安くて便利な『もの』になってしまったのです。

長年にわたり使われたものでも、手作りすることがなくなってきたためか、『もの』に対する愛着という意識が、かなりさびれた感じがします。

日本では、八百万の神という観念があり、生物はもちろん長く使ったものにも『魂』が宿ると言われますが、私の眼鏡もかれこれ20年以上使っており、フレームが壊れかけていて、買い替えようと思っていますが、魂が入っているようには感じていません(笑)

2019年9月30日にスイスのローザンヌで開催された2019年「世界デジタル競争力ランキング(World Digital Competitiveness Ranking)」において、日本の世界デジタル競争力ランキングは、なんと主要63ヵ国中23位と低く、昨年より1ランク落としました。先進諸国の中で、日本のDX順位は最下位クラスと言えるでしょう。

新たな社会が始まり、AIの活用をしなければならないと多くの経営者は危機感を持っているとされています。理系の優秀な人材、特に若い技術者を集めて、AI・DXへの対応していかなければならないとされています。

ただ、『AIやDXを活用していくこと』において、本当に、新人の理系が必要なのでしょうか? 本当に日本のAI技術は、世界から劣っているのでしょうか?常に新しい技術を受け入れなければならないというその考え方が、目的を持たず、終わらないPOCを何度も繰り返している原因ではないでしょうか?

多くの企業にとって『AIを創り出す』必要はありません AIは活用するものです。必要なものは、今、感じている課題を具現化しAIを如何に活用できるようにするかの想像力だけです。

日本人に長けている心を尽くすおもてなしをAI化していくことができれば私は最高だと思っています。繊細さをAI分析しなくて何を分析するのでしょう?無機質な技術をAI化することは、正直あまり意味がないのです。

ビジネスにおいては、効率化を図るべきだと私も思いますが、人間関係においては、心を媒介する『もの』や『サービス』があっても良いかなと思います。

日本の『おもてなしのサービス』は世界一のレベルであると思います。そのちょっとした気遣いをAIで活用していくことで、世界に通用する技術を創り上げられるのであると私は感じています

2020.08.31

今の時代に神を創れるとしたら、どのような神様を創造しますか?

古代から人は信じるものを求めて、多くの神を創りました。
大自然の営みの中から、人の能力を超えたものを神の崇高な意図としました。
日照り、洪水、稲妻、地震などの災害を神のなす業とし、いつ起こるか予想のできない災害に対して神の気まぐれとして受け入れるために神を擬人化して、ストーリーを加え、海や太陽の人の起源までも伝えるようにしました。

神の存在が、今の時代も伝えられるのは、それは神秘的でありながらも、何千年経っても変わらない人の本質への戒めが伝えられているからであると思います。
その時代に生きた人が、時を超えて何世代にわたっても、何か大事なことを伝えたくて、必死に考えた結果、人が神を創り、権現、方便として心の本質を伝えてきたのかもしれません。

もし、仮に今の時代の戒めを次の世代に伝えるとしたら、どのような神を創るのでしょうか?

私は、ほとんどテレビを見ないのですが、テレビを人からは、『毎日、テレビでコロナ、コロナと放送されて頭がおかしくなりそう』と聞くことがあります
コロナ前と現在のテレビの視聴率を比較するサイトがあったので、見てみましたが、やはり、前年同時期と比べて150%の視聴が増加したそうです
https://www.videor.co.jp/press/2020/200616.html
テレビのKPIは、視聴率でしょうから、コロナで視聴率が上がるのであれば、コロナネタ放映をするのは当たり前ではないでしょうか?
また、世論を背に票を獲得する都知事や政治家がなかなか、方向展開できず、逆にそれを後押しするのも当たり前ではないでしょうか?
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/
中小企業を経営している私にとっては、コロナで亡くなる人より、自殺者のほうが身近にいます。未知のウィルスであれば、当然、警戒すべきで対応すべきです。ただ、コロナ毒性は、日本人にはかなり低いものであると既に証明されているのだと思います。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenjisatsu
コロナは誰にも感染する可能性があり、身近なものであると思いますが、大学生がコロナに感染すると犯罪者のような扱いをするのは、なぜなのでしょうか?
今年の大学一年生は、学校に行ったこともない人がいるとお聞きします。

どこのお店に行っても、マスクをして消毒液を用意してくれています。もちろん、私もマスクはしますし消毒液使いますし、家に帰れば手も洗えば、うがいもします。

総理が8月9日の記者会見で、4-6期の経済損失は年換算でリーマンショックを上回るGDP20%減、リーマンの時は失業者が100万人という数字を上げました。自殺者が4万人に迫ろうという数字です。
何か集団で、人を追い込む方向に進んでいるような気がします。
もう、大昔の話でしょうが、オウム真理教という宗教団体がありました。その組織は、自分の小さな集団に人を押し込み、洗脳し、自分の組織を守るためには、人を殺しました。
人は集団の外にいれば、その特異な集団を批判することができますが、自分が狂気の集団の中にいると、自分の姿を気が付かないことがあるのではないかと思います

今の日本の状況は、失業者を増やし、人を追い込み、自殺者を増やしています。
盲目的になり過ぎることは危険です
TVのKPIは、視聴率です
お医者さんのKPIは、人を救うことです

目的を違えてお互いを洗脳しあっていませんか?

信じるものを明確に創り上げることが大事な世の中だと思います。

この時代の戒めを後世に伝えるとしたら、どのような神を創るのでしょうか?

2020.08.04

笑って死ねる人生それさえあればよい

昔、角川の映画で、このような歌詞の歌が主題歌で流れていました。

この歌詞は、戦い疲れた戦士がやっと死ねるという表現の歌詞だったように記憶しています。

子供のころに聞いたその音楽とフレーズは、強く耳に残っていますが、今でも歌えるかな(笑)
笑って死ねる人生があれば、本当にそれでよいと思います。死んでみないと分かりませんが、死ぬ間際に、人は、走馬灯のように自分の過去を振りかえれると聞きます。
その時に自分がどのような生き方をしたのかは、自分で、言い訳なしで見返すことができるでしょう。
その時本当に『笑って死ねるか?』はかなりの疑問です。後悔ばかりが先に立つような気がします。
後悔とは、自分が犯した罪です。
あいつが嫌い、
あいつがおかしいことをした、
と他人に問題の原因を転嫁して生きることはできます。
しかしそのことが、死の間際の走馬灯で自分の後悔の映像を目の当たりにし、それを脳裏に焼き付けながら逝くことに帰結させてるのだと思います。
過去を変えることはできませんが、過去を糧に、前に進むことはできます。
人生の前半は、多くを経験をして、多くの罪も犯しました。後悔の連続です
人生の後半で、やるべきことは、決まっていて、つぐないです
笑って死ねる人生を目指したいです。
2020.07.21

『運が良い人』と『運の悪い人』を見極めることができますか?

かなり前のTVで、田原総一朗さんが、松下幸之助さんへインタビューした回想シーンを観たことがあります。

『どんな人を採用するのか?』という田原さんの質問に対して、松下幸之助さんは

『運のいい人』

と答えたそうです。田原さんは更に、
『そんなことが分かるのですか?』

と質問をすると松下幸之助さんはしっかりと目を見て

『分かる』

と応えたそうです

私はそれを視聴して、『なるほど、運のいい人を採用すればよいのか!』と思い、面接をするときに、『あなたは、ご自分で運がよいと思いますか?』と聞いています。

あまりにもストレートな質問ですが、私には、松下幸之助ほどの慧眼は、ありませんから、聞くのが早いと思って、質問をさせて頂いています。

ただ、困るのは、面接をされる側の人のようで、この予想しない、意図もわかりづらい質問にまともに回答できる人はほとんどいません。
ほとんどの人が迷いを生じた態度になり、素直な心ではない、取ってつけたような回答になります。

100人質問して、自分が『運が良い』と目をキラキラして自信をもって応えられる人は一人もいません。それくらいの確率です。

私は1000人以上の面接をしましたが、正確に『私は運が良い』と応えられたのは、1人だけです。

その女性は『私は本当に運が良いのです』と応えると、聞いてもいないのに、自分の運が良いエピソードをしゃべりだしました

その女性は、東日本大震災に見舞われたときに東北の実家に住んでいました。その大地震の時、家の裏山が崩れて、本当にすぐ近くまで、大量の土砂が流れてきたそうです。

家の庭は大変なことになったそうですが、家は、無傷だったそうです。それを楽しそうに『私は運が良い』と話していました。

彼女は、面接時に自ら説明していましたが、生まれながらの聴覚障碍者で、私の声はほとんど聞き取れず、私の言葉を口の動きで見極めていました。
楽しそうに話す彼女を見て私は、『運の良い人』という質問をしておきながら、正解を教えてもらった気分でした。

それは、『運の良い』と思う人も、『運の悪い』と思う人も、両者とも『思い込み以外』の何物でもないということです。

どうして、その違いが生まれるというと、人生を積極的に考えているか? だけのことです。運が良いと思っている人は、失敗しても、諦めず、さらに多くのことにチャレンジすることでしょう。

運が良いと思っていれば当たり前のことで、チャレンジを続けることは、成功確率が上がることを意味します。

逆に『運が悪い』と思い込んでいる人は、結局、俺ばっか・・・・とあきらめてしまうかもしれません。

私は即座に彼女の入社を決めました

2020.06.25

そして、人は、龍になり、人を守る

鯉の故事Wikipediaから
中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。

竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。 初期の鯉のぼりは真鯉(黒い鯉)の一色のみだった。歌川広重の『名所江戸百景』では大きな真鯉一匹が描かれている。

今年のこどもの日は、いったい、どうだったのかが?記憶にもないくらいなので寂しい限りですが、こどもの日に鯉のぼりを家の前で高く空に掲げるのは、この古事からきているといわれています。(諸説あります)

自らの愛する子供を鯉になぞらえて、『のぼり』を上げて、多くの人に見てもらうように表現する意味は?? なんなのでしょう?

古事から読み取れば、鯉の滝登りのように苦難を乗り越えて『立派な竜(龍)になってほしい』という願いがあるということになります。

 立派な龍とは何なのでしょうか?

 私は正確な答えを持ち合わせていませんが、平安時代からあると言われる鯉のぼりの風習と同時代にどのように龍が表現されているか?? をネットなどで見ると、お寺などの境内や建物に多くの彫刻として刻まれていることが分かります。

写真は、2年ほど前に、娘と一緒に行った台湾の龍山寺です。(画像引用:https://www.wbf.co.jp/taiwan/kanko/ryusanji.php
建物は、龍の彫り物だらけで、柱から屋根まで見事な龍が造られ、描かれています

日本にも『龍』の文字がつくお寺はたくさんあります。

 龍はお寺そのものというより、仏教(法)の守り神とされていているそうです

日本でも聖徳太子の17条憲法、第二条は、『篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である』とうたい、その時代、仏教で人の心を導いていました。その仏法を守る人とは、それは、それは尊い人だったのでしょう。

日本の鯉のぼりとは、その龍になってほしい教えであり、龍とは多くの人を救える人になってほしい願いを方便として表現しているのであると思います。

 コロナ渦の中にありますが、科学や医学が進化した今、神の祈りだけではなく、人が人を救える時代です。無駄に怯えたり、批判の心ではなく、一人一人の行動で世界を変えられます。

 今、自分にできることに全力を尽くしたいです