『しもやけ』と『DX』
私の子供の時に住んでいた神奈川県の相模原市は、神奈川県の湘南・海イメージとは程遠く『さがみっぱら』と呼ばれ『原っぱ』だらけのところでした。冬は、庭のバケツの水が必ず凍っており、地面は霜柱が立っていました。
子供の時は、まったく気にしていませんでしたが、当時の小学生などが履く靴などは、たぶんかなりの安物で、冬場に凍った水たまりなどをバシャバシャ走りまわる私たちは、靴下がすぐにビショビショになったものです。
『足が冷たいなぁ』と思いながらも、そのまま、ほっぽりぱなしにすると足の小指が赤い芋虫のように腫れあがり、かゆくなりました。特に気にしていませんでしたが、それを見た父親が『しもやけだな。しもやけは血行障害だよ。寒くて血の巡りが悪いんだ』と言い、石油ストーブの前で揉んでくれたのを覚えています。最近の暖冬では、『しもやけ』などという言葉は聞きませんし、『使い捨てカイロ』などもあまり使わないような気がします。
昔の寒さがしみる冬は、身体を温める衣類などを渡すのが一つの愛情表現だったように思います。例えば、当時はマフラーや手袋はもちろん、セーターですら買うものではなく、手編みだったように思います。寒さをしのぎ、温かさで身体を包み込むマフラーや手袋は、愛情表現の象徴のようなものでした。
小学生の頃、あまり手袋などを身につけない子供でしたが、母が作ってくれた手袋はたまにはめていたような気がします。残念ながら、すぐに指の先に穴があくのですが、気にしないで、はめていました。
学生時代のバブル期あたりから、手袋やマフラーはお金で買うものとなり、現在では、かなり安価でどこでも買えます。1シーズンの使用程度でも使い捨てにしてしまう場合もあります。そうなるともう愛情媒介の象徴とは言い難いものとなりました。やさしさを媒介する『もの』ではなく、単に安くて便利な『もの』になってしまったのです。
長年にわたり使われたものでも、手作りすることがなくなってきたためか、『もの』に対する愛着という意識が、かなりさびれた感じがします。
日本では、八百万の神という観念があり、生物はもちろん長く使ったものにも『魂』が宿ると言われますが、私の眼鏡もかれこれ20年以上使っており、フレームが壊れかけていて、買い替えようと思っていますが、魂が入っているようには感じていません(笑)
2019年9月30日にスイスのローザンヌで開催された2019年「世界デジタル競争力ランキング(World Digital Competitiveness Ranking)」において、日本の世界デジタル競争力ランキングは、なんと主要63ヵ国中23位と低く、昨年より1ランク落としました。先進諸国の中で、日本のDX順位は最下位クラスと言えるでしょう。
新たな社会が始まり、AIの活用をしなければならないと多くの経営者は危機感を持っているとされています。理系の優秀な人材、特に若い技術者を集めて、AI・DXへの対応していかなければならないとされています。
ただ、『AIやDXを活用していくこと』において、本当に、新人の理系が必要なのでしょうか? 本当に日本のAI技術は、世界から劣っているのでしょうか?常に新しい技術を受け入れなければならないというその考え方が、目的を持たず、終わらないPOCを何度も繰り返している原因ではないでしょうか?
多くの企業にとって『AIを創り出す』必要はありません AIは活用するものです。必要なものは、今、感じている課題を具現化しAIを如何に活用できるようにするかの想像力だけです。
日本人に長けている心を尽くすおもてなしをAI化していくことができれば私は最高だと思っています。繊細さをAI分析しなくて何を分析するのでしょう?無機質な技術をAI化することは、正直あまり意味がないのです。
ビジネスにおいては、効率化を図るべきだと私も思いますが、人間関係においては、心を媒介する『もの』や『サービス』があっても良いかなと思います。
日本の『おもてなしのサービス』は世界一のレベルであると思います。そのちょっとした気遣いをAIで活用していくことで、世界に通用する技術を創り上げられるのであると私は感じています