サブロー通信

サブロー通信は、アースアイズ代表 山内三郎が配信するメルマガです。
本ページでは、2019年4月〜現在までのサブロー通信をご覧いただけます。

2021.05.24

あなたは親としての誇りと自信を持っていますか?

私は、今年の6月で56歳になります。四捨五入で60歳。本当に早いものです。
50歳くらいまでは、まだ、若いつもりでしたが、50歳も半ばになると自分で、鏡を見て「ちょっと老けたな」と思います。
床屋さんに行くと、床に切られた自分の髪の毛が、ほとんど真っ白で、「あらまぁ…」と自分でびっくりします。
そのうち、電車に乗って立っていると、席を譲られるかもしれませんね(笑)

私の父はすでに他界していますので、私の心の中にしか存在しないのですが、子供の時に見ていた父親と、歳を重ねた今の私の心の中の
父親のイメージとでは、違った感じがあります。なぜか、今の父のほうが、一線を引きながらも、友達のような身近さを感じるときがあります。

私が子供の頃の父は、自分が父親であることに迷いなどなかったと思います。昔は地震、雷、火事、親父などとと言われ、父親像というものは、どの家庭においても、一定の威厳と恭しく飾られる格式があったように思います。父は、その世間の父親像をごく普通に受け入れて、特に演じることもなく、その役割を普通に(時には耐えながらだと思いますが)こなしていたと思います。

今の時代、父親であること、母親であること、先生であること、・・・自分が何をして良いか分からず、SNSの「理想の父親」「理想の母親」
などを検索して、何をすべきかを探すこともあるのではないでしょうか?
イクメンという言葉が定着しつつあり、父親像というものは、大きく変わりました。

父親の社会的な役割が、社会に合わせて変わるのは、分かるのですが、そんなに簡単に変化する理想とは怖いもので、元々、理想などなかったのだろうとすら感じてしまいます。

勉強の仕方、よりよい育て方、健康な食べ物、コロナの予防・・・情報が洪水のように押し寄せて、何が真実かを迷ってしまうような現代社会が、父親も母親も、その自覚すらを難しくしてしまっているような気がします。

人生において、目標を持ち、その目標を達成する努力をすることを、私は素晴らしいことであると思っています。私は自分の子供には夢や目標をもって、その努力をしてほしいと思います。人は夢しか実現できません。ただ、自分のやりたいことやしたいこと、何をしなければならないか?そんなことは、親であっても教えることはできません。親として教えられることは、巣立つまでの社会的なマナー程度です。
私にできることは、どんなに失敗しても、自分に恥じない生き方をすることだけです。
ー私が強く生き抜くことーそれが子供の心の支えになるのであれば、私はうれしく感じます。

2021.03.17

人生にチャンスは何度、巡ってくるのでしょう?

私は、どんなにどん底な生き方をしていても、
『あれ、チャンスが巡ってきたかな?』
とお目出度いことを考える特殊な人間です。

うだつの上がらない三流センスの私にも人生の岐路とか、
チャンスか?悪魔のささやきか?と思える出来事が幾度となく
巡ってきました。

果たして、神様は、誰にでも平等に同じ数のチャンスを
与えてくれてくれるのでしょうか?

かなり昔の番組で、明石家さんまさんの番組の中に
『ご長寿早押しクイズ』というものがありました。80歳以上の
ご長寿が3人出られて、司会者の出題に珍解答を応える名物コーナーです。

コーナーの司会者の鈴木史郎さんが、なんとかご長寿の方々に
問題を解いてもらおうと『解答ギリギリ』のヒントを出すのですが、
全員、とんでもない方向の解答をするので答えに1ミリも近づかず、
それがまた、笑いを誘いました。

そのご長寿の中で、一番多くの正解を出した人を当てるコーナーなのですが、
珍解答連発の解答者の中から、正解者を当てるのは至難の業です。

ところが、出演者の関根勤さんは、その珍解答者のご長寿を見極めて
よく当てていました。

なぜ、当てられたか?

私が見ていて気が付いたのは、どんなにとんでもない間違いでもめげずに、
何度も、何度も、最初にピンポンボタンを押して、手数の多い解答者を
指名しているということです。

確かに全員と同等のレベルであれば、確率的には間違いなく、
数多く解答した人が、トップになるはずです。

実はチャンスとは、誰にも巡ってくる天下の周りものではなく、
恥をかいた回数と同じで、数を多く打てば人より多くのチャンスが
巡ってくることになるのです。

つまり、チャンスとは、待つものではなく、
自分から作るものであるということです。

恥をかいて、チャンスを作る。
考えてみるとこれは、私の人生そのものかもしれません。

もちろん、チャンスの先に、実力を身につけ、
体制を固めることができなければ、失敗の繰り返しになります。
そこからが、やはり勝負時となるでしょう。
チャンスを作ることと勝負とは別物です。

2021.03.03

さぁ オリンピックだ

私は誰が何と言おうと、オリンピックが待ち遠しい。

私は1965年生まれで、当然戦後生まれですが(笑)、私の生まれるほんの20年前の1945年に東京が焼け野原だったことなど想像もつきませんでした。
戦争など、子供の私には遠い過去の話に思え、周辺にその名残もありませんでした。
社会は大きく変わっており、成長していました。
ただ、子供のころ、近所に片足のないおじいちゃんをたまに見かけました。
いつも犬と一緒で、犬があたかもおじいちゃんの片足代わりであるかのように常に寄り添っていました。
誰も説明してくれませんでしたし、私も聞かなかったのですが、今にして思えば戦争帰りの方だったのでしょう。

1964年に東京で行われたオリンピックは、戦後の復興のシンボルとして行われたといわれています。
当時、父の時代は居酒屋で腕まくりして「日本ってのはよ~」と酒の肴に復興の話を前向きにしていたように感じます。
時代が変わった今、東京でオリンピックが行われることには意味があると思います。

今回のオリンピックは、世界に先駆けてコロナに負けない東京を位置づける本当にシンボリックなイベントになると思うのは、私だけなのでしょうか?
1964年は日本の復興がシンボルだったかもしれませんが、2021年は、世界の復興をイメージできる大きなイベントにすることができます。
批判ばかりで、何も生み出すそうとしない人より、必死に成功に導こうとする人のほうがはるかに尊いと思います。
その人達を非難することだけは本当に止めてほしいと思います。
スポーツは、人に感動を与えて、心を通じ合い、そして人を動かすことができます。
批判をするだけで、その場にとどまり前進すらしようとしない人に耳を傾ける必要はありません。

多くの人がテレビ離れしている近年ですが、コロナでテレビ業界は息を吹き返しました。
コロナ禍で不安を先導した報道が流れ、「他人の非難ばかり」で辟易します。
政治批判や、日本はダメで海外事例は素晴らしいなど、他人を貶めるような話ばかりです。
他人を批判すると自分が有利な立場に立ったように感じるのでしょうか?
私はまったく同調する気になれません。

上を向いて歩きませんか?
オリンピックを政治批判や女性蔑視の問題と結びつけている時点で、本質的な問題を討議しようとしていません。
テレビ番組はコンセプトを最初に作りますので、ストーリーに乗せやすい部分を切り取って作っています。
これは数字の取りやすい、不安を煽って視聴者を同調させるやり方です。これほど無責任で、危険なことはありません。
民意をコントロールして、何も責任を取りません。視聴率を取りたいだけです。
オリンピックを何年も何十年も命がけで目指してきた人や、それを支えている人たちが世界中にたくさんいます。
しかしながら、そのチャンスはほんの一瞬です。それを編集されて切り取られた「街の声」で打ち消してよいのでしょうか?

多くの人に共通の壁がある今回のオリンピック。
世界共通の壁を越えられたならば、それは、本当に世界中の賛辞を受ける、まさに世界最大のイベントになると思います。

2021.02.19

ファインプレー

高校時代神奈川県下の名門野球部に所属していましたが、野球が下手な私は試合に出る術もなく、ベンチを温めるどころか、ベンチに入る気配すら無いままに下級生時代を過ごしました。

 そんな私が、初めて公式の試合用のユニフォームに袖を通したのは、高校二年の秋で実質的な最上級生になってからです。その秋、低迷する野球部の立て直しに、新監督として土屋恵三郎さんを新たに迎えていました。土屋さんは、昭和46年に甲子園初出場初優勝に導いた捕手兼4番打者で、私達の大先輩でもありました。
 新監督になっても私にはチャンスは巡って来ず、練習試合にすら一度も出番が無かったように記憶しています。そんな私がなぜ、ユニフォームを着ることができたのか? サッパリわかりませんが、ギリギリでユニフォームを貰えました。
 私の公式戦のデビューは、2回戦か3回戦目かの少し勝ち進んだ時だったと思います。相手は都立の多摩高校でした。前半は拮抗した試合展開でしたが、味方のレフトを守っている選手がモタついた守備をしたために、監督に烈火の如く怒られて交代を告げられました。
「山内、守備に入れ」と言われ、同級生では一番遅いデビュー戦が廻ってきました。
 実力があり、自信のある選手であれば、「待ってました」ということになるのでしょうが、私は自信が無いので不安しかありません(笑)
 レフトの守備位置についても、打者までの距離が遠く感じ、自分の守備位置が本当に「ここで良いのか?」と自問自答するような状態でした。
 私は練習ではライトを守っており、守備位置につくと
「ライン際はボールが逃げる」
「グローブの芯で捕れ」
と震える身体に自分で言い聞かせていました。
 ライトのライン際の打球は守備から見ると、左に切れていき、レフトは右に切れていきます。普段とは逆の守備位置についているので全てが逆になるという点だけは理解しつつも、打球が来るのを恐れていました。
 守備位置について直ぐのことだったと思います。まさに、恐れていたそれが飛んできました。瞬時に私の身体は、打球に反応できました。緊張状態は限界を超えていて、頭は機能しておらず身体だけの反応でした。
 打球を追う時、私は打球から目を離して全力で走れます。これだけが私の唯一の野球センスで、打者が打った瞬間に打球の角度や性質が判断でき、落下地点に最短距離で走り出すことができます。打球を見ることはありません。
 いつも必死に走って行って、良い頃合いに視線を上げれば、そこに打球が飛んで来ます。不思議と打球の方向を間違えたことも視線を上げるタイミングを間違えたこともありませんでした。
 全力で走りながら視線を上げると、打球は地表スレスレのライン際を痛烈な勢いで飛んでいて、私の身体から逃げるようなドライブがかかっていることが分かりました。私の視線もなぜか地表スレスレの低いところにあります。その打球は、両手では補球できそうもなく、片手で目一杯腕を伸ばし切らないと届きそうもありません。外野でも片手で勢いのある打球を取ろうとすると、グローブの中でボールが弾み、打球がこぼれ落ちることがあります。
 捕球体制に入った私は打球の勢いを殺せる親指と人差し指の間に打球が入るように、必死にグローブを伸ばしました。そしてその打球がグローブに入ろうとする瞬間、手首をクイっと曲げて私のグローブが芯でボールを捕らえ確実に打球の勢いを抑えるようにしました。そして、グローブ越しに左手は補給の手応えを感じました。「芯で捕れた!打球は絶対に落ちない」と掌の感覚が教えてくれるとホッとしました。
 次の瞬間、外野の芝生にすごい勢いで胸が滑っていく感触と、地面を擦るザザーッという音に自分で愕きました。集中から解放された身体は、触覚と聴覚を瞬時に取り戻しました。私の身体はレフトの芝の上に止まりました。
 どうやら、ライン際を襲うライナーを地表スレスレで、ダイビングキャッチをしたようだとそこで初めて気がつきました。頭からグランドに飛び込んだことすら自分で分からなかった。無我夢中とはあんなことを言うのだろうと思います。
「おおぉー!」とどよめく歓声がスタンドから起こったことを覚えています。
 今思えるのは、必死の心の準備と無我夢中の意識が、良いプレーに繋がったのであろうということです。
 集中力があれば凡人でも良いプレーができる。仕事でもそうなんだろうなと思っています。
2021.01.13

人を救う経済を 日本人は本当の経済を知っている(経世済民)

いつか、誰かが、令和の時代を振り返る時、コロナ(ウィルス)元年と名付けるかもしれないこのお正月、令和三年一月七日に一都三県に再び非常事態宣言が発令されました

もちろん、感染をこれ以上拡げないことが大事ですが、更に心配なのは、経済の行方や人のやる気です。

withコロナという言葉が「お題目」ではなく、いかにして経済との両立を真剣に考えることが必要であるかにも関わらず、TVは、ワクチンの話や、政府や知事を悪者にするような話に終始しています。

経済は人々の生活を成り立たせている基盤です。

経済は個人・各々の目標や大事にしているもの(健康、家庭第一、趣味など)や生活と、大なり小なり結びついており、どちらを大事するものということではありません。

英語で経済というとeconomy と訳され、無機質な数字的な意味のように感じますが、日本語の経済という言葉は、経世済民という中国の古事に由来しています。

経世済民の「経」とは、時間の経過を意味するだけではなく、「治める」という意味があります。また、「済」は救うという意味ですが、古くは「橋を渡す」という意味がありました。川を挟んで、橋を作り、町と町、そして人々の往来を促すことを意味していました。日本でも人と人とを引き合わせることを「橋渡しをする」などと表現されたものです。

つまり経済(経世済民)の本来の意味は、苦しむ人の世を治め、環境を整えて、多くの民を救うことにあります。

economyを経済と訳したのは、福沢諭吉(諸説あるそうですが・・)と何かの本で読んだことがあります。さすがに世の偉人は、社会の起伏を熟慮し、普遍に通じる素晴らしい意訳ができるものだと思います。

経済というものは、日常とは、切っても切れない環境にあることは、一度目のコロナ禍で実証されています。世界は、無機質なeconomyとコロナ対策とを区分するのではなく、人と人を繋ぐ、架け橋として「おもいやり」、「おもてなし」などの「心あるeconomy」=「経済」を必要としています。

日本人として、世界に「economy」ではなく「経済」を拡げることがwithコロナの生き方であると感じています。

2021.01.01

謹賀新年

一心に事業に集中し、邁進する所存です。
何卒、今年も宜しくお願い申し上げます。

2020.12.21

二つの優勝 I am proud of you

11月8日(日)早稲田と慶応は、すべてを賭けた優勝戦に臨んでいた。ともに勝ったほうが優勝という試合で、9回2アウトまで慶応が2-1のスコアで勝っていたが、早稲田・8番打者の蛭間の一振りは、バックスクリーンに届く2ランホームランで逆転。伝統の早慶戦にふさわしい劇的な試合で早稲田が46回目の優勝を飾った。

他方、同時期にも他の六大学リーグで優勝したチームで争う横浜市長杯争奪 関東地区大学野球選手権大会がおこなわれていた。首都大学リーグ、神奈川大学リーグ、千葉大学野球リーグ、東京新大学野球リーグの上位2チームが争い、関東1位を決めるもので、紙一重の戦いをトーナメントで勝ち進まなければならない。見事に優勝を決めたのは、神奈川六大学の桐蔭横浜大学だった。

本来であれば、横浜市長杯で優勝した桐蔭横浜大学と東京六大学で優勝した早稲田は、大学野球の全国大会である明治神宮大会に出場することになるはずだったが、今年はコロナの影響で中止されてしまった。

この二校が全国大会である明治神宮大会に出場し、ともに試合をするのを日本で一番楽しみにしているのは、私だと思う(笑)。

桐蔭横浜大学の斎藤監督は、高校時代の野球部の同級生で、早稲田の小宮山監督は大学時代の同級生だ。しかも、3人とも二浪して大学に入っているので、学年も3人とも一緒(笑)

二人の監督の活躍は、大学野球の楽しみを増やしてくれている。

早稲田のグランドで毎年、桐蔭横浜大学と早稲田は練習試合をするので、必ず、見に行っている。試合後、小宮山・齋藤両監督と弁当を食べながら、談笑するのが1年に一度(笑)の習慣になっている。

この二校が共に激戦のリーグ戦を勝ち抜き、優勝し、更に一度でも負ければ終わりのトーナメント方式の全国大会において試合をする確率をAIがはじき出したら、とんでもなく低い数字になるだろう。ただ、その確率論とは別に、かなり早い段階で、この二校が、全国大会で相まみえるときが来るだろうと、なぜか安心している。共に負けなしで、勝ち進めば、必ず、戦うときが来るからだ。

それを信じさせる二人は、素晴らしい。

優勝、おめでとうございます。

2020.11.30

色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(後編)

前回、色(物体)、受(色認識・RGB)、想(神経を通じて送る)、行(目的を把握)、識(知識の中から判断をする)の流れをご説明しました。

五感カメラを創りたいと思ったのは、この考え方からなのですが、ただ、私の理想とする五感カメラは、まだまだできていません(笑)

AIが識(知識の中から物体をどのように扱うか?)については、まだ時間かかるということで前編を結びました。
識は、人の体験から生まれる心の判断するもので、AIにはその体験ができないからです。

AIにはまだ、目的を理解する『選択』ができません。
物体の把握などは簡易にできるようになってきていますが、それが何に役立つから人がそれを生み出したのか? は理解していません。
ボールや、眼鏡、自動車の区別はできますが、それが何の役立つかの理解は、それを使う人の状況や環境を把握できなければならず、まだ、少し先の話になりそうです。
他方、計算により方向性を生み出せるものについては理解できます。
例えば、チェスや将棋のように相手の王様を倒すことがゲームの目的であれば、理解できます。数百・数千・数万通りの選択があったとしても方向性が分かっていれば、目的に到達することができます。
しかしながら、人の営みの中の目的は手法が見当たらない場合があります。『のどが渇いているから、飲み物が欲しい』という状況で喫茶店に入った場合、メニューの中から人は選びます。
『識』はこの選択となります。美味しいものが欲しいと言ってもあまりにも主体的過ぎます。プログラムでは判断できません。また、本人が思い描いた商品がなかった時は、システムは選択できません。
『識』は心の判断になり、『今日は今まで飲んだことのないものを頼んでみるか?』という気分を優先し選択することができます。

さて、五感に絡む表現として、六根清浄という言葉もあります。
これは、六根というのですから、6つの器官を指しています。眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)と意識です。

物体は『色(しき)』と表現されることは前回、ご案内した通りです
。色を把握するのが眼となり、色が脳に伝わり物体を認識することを眼識とも言います。

六根の五感の器官の関係を並べると眼は色、耳は声(しょう)、鼻は香(こう)、舌は味、身は触(そく)となります。
各々が眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という言葉が、各五感器官が神経を通じてその内容を把握した状態を表現しています。それを心で感じ取り何かを『思い』『行動を促す』のが『意識』となるわけです。

六根清浄とは、行動や思いに繋がる『六つの根』を清浄に保つ頃で、良い行いができるたとえとなります。

ここで『あれ??』と思うのですが、『人工知能』といわれる『脳の機能』というものは、どこにいってしまったのであろう?? ということなのです。

仏教においては、あくまで脳は、機能の一部でしかないのですね。五感機能の延長、想(=神経を通じて送られた情報)されて、行(=対象物が何であるかを把握・認識)されるのが、脳の機能と思われますが、ただの機能とされていて、社会的にAIと大騒ぎされるほどの重要視されたものではないのです

脳は、機能でしかなく、物事の判断は、道理を理解、世の中の法則である『法』に近づいた『意識』で判断することが大事であるとしています。

心が痛いと言って、頭を抑える種族は世界中を探してもいません。誰もが胸を抑えます

当社が目指すAIで『事件事故を未然に防ぐ』ことを実現させていくには、正確に精巧に映像などの人の五感の情報をCPU、もしくは整然とデータベース化されれば、実現できるものと感じています。
理由は、脳は、機能でしかないからです。確かに複雑で複合的な処理をすることはありますが、あくまで機能です。
精巧な情報があれば、正確な答えが導き出せるはずです。

AIは人としての意識(五感における体験をした知識と判断)を持つことはできません。
そのためにAIにおける『識』はあいまいなものになります。『識』は、最後は人が心を持って対処すべきです。

当社が小売業で実行しているAIカメラが不審者を探知して、通知し人が心(識)を持って『お声掛け』をして万引きを未然に防ぐ仕組みは、AIと人の行動の融合の第一歩の手法であると私は信じています。

2020.11.27

色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(前編)

アースアイズの事業テーマは、抑止・予防です。事件・事故を未然に防ぎたいという思いで創業しました。
AIカメラはあくまで、その目的を達成させるための手段にすぎません。
創造されるAIカメラは、五感機能を兼ね備えたものが必要であると思いました。
それは、人間が危険を察知するのに必要な機能だからです。
人工知能といわれるAIを人間の部位に譬えると、脳ということになるでしょう
人間の脳は頭蓋骨の中にあり、外界の接点・情報の取得は、五感によるものしかありません。つまり、見る・聞く・味わう・嗅ぐ・肌で感じるなどの機能がなければ、脳の成長はありません。
脳へのアクセスがなければ、本能部分しか機能できません。人としての営みは、ヘレンケラーのサリバン先生のような人が必要です。
仮に、五感が優れていても、良いことばかり聞けば、その方向に、悪いことばかり聞けば、その方向に人は判断し進むだけです。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだと思います。
AIも同じことが言えます。AIに外観の接点である映像、音声、音源、におい、温度などを正確に伝えることができれば、その内容を把握できます。今のAIシステムは、まだまだ、誤検出があります。これは、AIの能力が低いのではなく、AIにとっては、情報があいまいで、足りないためです。人間との違いは、あいまいなデータでも、膨大な量で補完して、学習機能を高めることができるということです。人間は長年に蓄積された経験で判断しますが、コンピュータは、短期間で膨大な量を黙々と24時間処理をして学習してくれます。ただ、これは、コンピュータが処理をするために必要なもので、人間の経験値を補うものではなく、あくまで、『検出するため』の情報です。五感経験値を持っていないAIは1万枚もの写真を必要としていますが、あくまで、それは、色情報から判断した客観的な物体でしかありません。人間の犬と戯れた五感経験で覚えるものとは、まったく次元の違うものです。
仏教では、人が物を把握する流れとして色受想行識として表現されています。色・受・想・行・識でおのおの意味があります。
色は、物体そのものを意味します。世の中の物は『色』と表現されます。カメラの分野でも映っている物体は色の光の三原色RGB(red、green、blue)の色の濃淡で、白や黒も表現されているだけで、物体はあくまで色だけで表現されます。
受は、目が物体を視覚で捉えることです。例えば、ペットボトルを目で捉えることが受です。
目の網膜にその物体が映し出されるだけです。この時点で、受は何も物体区分をしていません。客観的に物を捉えるだけです。
想は、その『受』された情報が、神経を通じて脳に送られることを想といいます。脳で、何か物体を考えることを想像というのは、送られた物体の像を想うことですね。
行は、その物体の用途・内容を把握することです。ペットボトルは、水を入れるものであるという存在の意味を把握します。人間が作った人工物には、全てのものに目的があり作られています。
そして識は、そのペットボトルを利用して、自分が何に使うかを判断することです。のどを潤すのか? 人に飲み物を渡すのか? また、水を汲む道具として活用するのか? 自分の経験、知識からどのように活用するかを考えて、判断をするのが、『識』となります。
仏教では一つの間違いもなく全てのことを把握し、より良い方向に導いてくれる人のことを『善知識』といいます。『識』は、よりよい判断をするための経験値といえると思います。
カメラに、上記の色・受・想・行・識の5段階があるとしたら、受・想しかありません。物体を画面に映し出すだけのものです。映し出されたものの判断『行』『識』は、それを見た人間に任せるのがカメラのミッションとなります。
そこに、AIカメラなど脳が少し加味されてくると、色・受・想・行まではできつつあると言えますが、それを経験の中から活用する『識』まではできていないというところだと思います。
AIカメラは、受で映像(画像)を把握して、脳に送る(想)ことで物体(色)を認識します。物体を認識できれば、その用途(行)は(データ上)理解できます。
もし仮に、物の理解・勉強するだけ、単語を覚えるだけであれば、色・受・想・行までで目的は達成すると思いますが、『識』は人が行動するための知識を活用することです。コンピュータが識を意識できるようになるのは相当先の話だと思います。(次回の後編に続く)
2020.11.02

さぁ 早慶決戦だ 伝統の血

1988年 石井連蔵監督は、早稲田の第14代監督として26年ぶりに再就任しました。私は大学2年の冬、3年に進級する年です。
石井連蔵監督のその厳しい練習は、当時の私たちにも語り継がれていました。炎のような鋭いノックの嵐で、それを受ける選手が、じりじりと後ろに下がってしまう。それを追い詰めるように監督は一歩一歩、前に出る。そのうちに、ノックをしながら、グランドを一周してしまった(笑)とか、、、練習中に42.195キロを走らされた。。。とか、その伝説には、尾ひれ背びれが付いているとは思われますが、とにかく伝説中の伝説の監督です。
その人が、低迷する早稲田の切り札として26年ぶりに再就任されることになりました。

石井連蔵さんが監督になられるときは、確か、雨か雪か? が降っていて、東伏見の食堂で石井連蔵さんを迎えることになったと記憶しています。私たち選手は、その伝説の人のお話を興味半分、恐怖半分で席について待っていました。当時、OBの話はとにかく長く、前監督のお話もとても長かった(笑)ので、選手はその部分でも覚悟をして待ち構えていました。
石井連蔵監督は、現れるとお話をし始めました。
その姿は、大柄なお姿とは裏腹に、控えめで我々に気を遣っているようにも見えました。
ただ、その言葉は、はっきりと伝わりました。
『君たちには、早稲田の血が流れているんだ。私にも、君たちにも。同じ血が流れているんだ』
早稲田の血という言葉を意味はすぐには把握しづらい言葉でしたが、勢いは理解でき、頷いていたのを覚えています。新監督のお話は良い意味で期待を裏切り、ほんの数分でした。
後に石井連蔵監督が、TVのインタビューに応えている映像を観ました
聞き手の人が、『昔の選手と今の時代の選手は、やはり違いますか?』という質問に対して
『今も昔も変わっていませんね。それぞれ伝統の血が流れている。いつの時代でも流れている。早稲田もやはり、早稲田の血が流れているのです』と応えています
さらに聞き手の『早稲田の血とは何ですか?』という質問に対して
『やはり、一生懸命に野球をやろうじゃないかと。真剣にやる人だけが持てる特権は、分厚い壁なのですよね。それを自分の力で破っていこうと。それが早稲田の野球だし、もし仮に監督に仕事があるのであれば、そのような壁を作る環境の整えてあげることが監督の仕事です。』と応えていらっしゃいました。
早稲田の血を引き継ぐ、私の同期の小宮山監督が、この秋、負けなしの早稲田と負けなしの慶応で優勝を競い合います。
私たちの血も湧かしてほしいと思います。
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