色受想行識 六根清浄 AI五感カメラ(前編)
アースアイズの事業テーマは、抑止・予防です。事件・事故を未然に防ぎたいという思いで創業しました。
AIカメラはあくまで、その目的を達成させるための手段にすぎません。
創造されるAIカメラは、五感機能を兼ね備えたものが必要であると思いました。
それは、人間が危険を察知するのに必要な機能だからです。
人工知能といわれるAIを人間の部位に譬えると、脳ということになるでしょう
人間の脳は頭蓋骨の中にあり、外界の接点・情報の取得は、五感によるものしかありません。つまり、見る・聞く・味わう・嗅ぐ・肌で感じるなどの機能がなければ、脳の成長はありません。
脳へのアクセスがなければ、本能部分しか機能できません。人としての営みは、ヘレンケラーのサリバン先生のような人が必要です。
仮に、五感が優れていても、良いことばかり聞けば、その方向に、悪いことばかり聞けば、その方向に人は判断し進むだけです。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものだと思います。
AIも同じことが言えます。AIに外観の接点である映像、音声、音源、におい、温度などを正確に伝えることができれば、その内容を把握できます。今のAIシステムは、まだまだ、誤検出があります。これは、AIの能力が低いのではなく、AIにとっては、情報があいまいで、足りないためです。人間との違いは、あいまいなデータでも、膨大な量で補完して、学習機能を高めることができるということです。人間は長年に蓄積された経験で判断しますが、コンピュータは、短期間で膨大な量を黙々と24時間処理をして学習してくれます。ただ、これは、コンピュータが処理をするために必要なもので、人間の経験値を補うものではなく、あくまで、『検出するため』の情報です。五感経験値を持っていないAIは1万枚もの写真を必要としていますが、あくまで、それは、色情報から判断した客観的な物体でしかありません。人間の犬と戯れた五感経験で覚えるものとは、まったく次元の違うものです。
仏教では、人が物を把握する流れとして色受想行識として表現されています。色・受・想・行・識でおのおの意味があります。
色は、物体そのものを意味します。世の中の物は『色』と表現されます。カメラの分野でも映っている物体は色の光の三原色RGB(red、green、blue)の色の濃淡で、白や黒も表現されているだけで、物体はあくまで色だけで表現されます。
受は、目が物体を視覚で捉えることです。例えば、ペットボトルを目で捉えることが受です。
目の網膜にその物体が映し出されるだけです。この時点で、受は何も物体区分をしていません。客観的に物を捉えるだけです。
想は、その『受』された情報が、神経を通じて脳に送られることを想といいます。脳で、何か物体を考えることを想像というのは、送られた物体の像を想うことですね。
行は、その物体の用途・内容を把握することです。ペットボトルは、水を入れるものであるという存在の意味を把握します。人間が作った人工物には、全てのものに目的があり作られています。
そして識は、そのペットボトルを利用して、自分が何に使うかを判断することです。のどを潤すのか? 人に飲み物を渡すのか? また、水を汲む道具として活用するのか? 自分の経験、知識からどのように活用するかを考えて、判断をするのが、『識』となります。
仏教では一つの間違いもなく全てのことを把握し、より良い方向に導いてくれる人のことを『善知識』といいます。『識』は、よりよい判断をするための経験値といえると思います。
カメラに、上記の色・受・想・行・識の5段階があるとしたら、受・想しかありません。物体を画面に映し出すだけのものです。映し出されたものの判断『行』『識』は、それを見た人間に任せるのがカメラのミッションとなります。
そこに、AIカメラなど脳が少し加味されてくると、色・受・想・行まではできつつあると言えますが、それを経験の中から活用する『識』まではできていないというところだと思います。
AIカメラは、受で映像(画像)を把握して、脳に送る(想)ことで物体(色)を認識します。物体を認識できれば、その用途(行)は(データ上)理解できます。
もし仮に、物の理解・勉強するだけ、単語を覚えるだけであれば、色・受・想・行までで目的は達成すると思いますが、『識』は人が行動するための知識を活用することです。コンピュータが識を意識できるようになるのは相当先の話だと思います。(次回の後編に続く)