サブロー通信

サブロー通信は、アースアイズ代表 山内三郎が配信するメルマガです。
本ページでは、2019年4月〜現在までのサブロー通信をご覧いただけます。

2020.11.02

さぁ 早慶決戦だ 伝統の血

1988年 石井連蔵監督は、早稲田の第14代監督として26年ぶりに再就任しました。私は大学2年の冬、3年に進級する年です。
石井連蔵監督のその厳しい練習は、当時の私たちにも語り継がれていました。炎のような鋭いノックの嵐で、それを受ける選手が、じりじりと後ろに下がってしまう。それを追い詰めるように監督は一歩一歩、前に出る。そのうちに、ノックをしながら、グランドを一周してしまった(笑)とか、、、練習中に42.195キロを走らされた。。。とか、その伝説には、尾ひれ背びれが付いているとは思われますが、とにかく伝説中の伝説の監督です。
その人が、低迷する早稲田の切り札として26年ぶりに再就任されることになりました。

石井連蔵さんが監督になられるときは、確か、雨か雪か? が降っていて、東伏見の食堂で石井連蔵さんを迎えることになったと記憶しています。私たち選手は、その伝説の人のお話を興味半分、恐怖半分で席について待っていました。当時、OBの話はとにかく長く、前監督のお話もとても長かった(笑)ので、選手はその部分でも覚悟をして待ち構えていました。
石井連蔵監督は、現れるとお話をし始めました。
その姿は、大柄なお姿とは裏腹に、控えめで我々に気を遣っているようにも見えました。
ただ、その言葉は、はっきりと伝わりました。
『君たちには、早稲田の血が流れているんだ。私にも、君たちにも。同じ血が流れているんだ』
早稲田の血という言葉を意味はすぐには把握しづらい言葉でしたが、勢いは理解でき、頷いていたのを覚えています。新監督のお話は良い意味で期待を裏切り、ほんの数分でした。
後に石井連蔵監督が、TVのインタビューに応えている映像を観ました
聞き手の人が、『昔の選手と今の時代の選手は、やはり違いますか?』という質問に対して
『今も昔も変わっていませんね。それぞれ伝統の血が流れている。いつの時代でも流れている。早稲田もやはり、早稲田の血が流れているのです』と応えています
さらに聞き手の『早稲田の血とは何ですか?』という質問に対して
『やはり、一生懸命に野球をやろうじゃないかと。真剣にやる人だけが持てる特権は、分厚い壁なのですよね。それを自分の力で破っていこうと。それが早稲田の野球だし、もし仮に監督に仕事があるのであれば、そのような壁を作る環境の整えてあげることが監督の仕事です。』と応えていらっしゃいました。
早稲田の血を引き継ぐ、私の同期の小宮山監督が、この秋、負けなしの早稲田と負けなしの慶応で優勝を競い合います。
私たちの血も湧かしてほしいと思います。
2020.10.12

あり得ないなんてあり得ない(均一化させる罪)

人は確かなものが大好きです。特に会社や仕事の分野になってくると、確かなものを追いがちです。

ただ、確実なものを追い求めると、変化を嫌うことにつながりやすくなります。私は、これが日本のDXが遅れている要因の一つだと思っています。

確かなものを求める心は、自分を一般的なことや『こうあるべきだ』と当てはめていく傾向があると思っています。

先人の言い伝えを学ぶことは、大事なことであるのですが、自分のシチュエーションが本当に同じ環境になっているのかの確認が必要です。

 

想定外、予想外のことは、必ず起こります。今回のコロナも、大型台風も、地震も想定外のことが毎年起こっています。

これを統計で算出していたのなら、世の中はもう少し安定した社会になっていたでしょう。

 

確かなものなど、存在しないのに平均的なことを不変なことと思いがちで、そこに安心を求めます。

場合によっては、他人(他社)が実行していることを受け入れるとそれが確かものであると思いがちです。自分が個性を否定されて均一化されることは拒むのに、飛びぬけて『変な人に』なることも恐れます。

 

人間を均一化するのは実際には難しいことです。

 

プロ野球選手は、当然、野球の才能があり、それでプロとして仕事をしているのですから、平均どころか飛びぬけた存在でしょう。しかしながら、彼らにピアノを弾かせたら平均よりも下手かもしれません。タクシーのベテラン運転手であれば平均より、間違いなく道を知っているでしょう。また、絵の才能などといったら、平均との比較などは、まったく意味がないことでしょう。人を均一化するなどは、あまり意味のないことであると思います。

 

人が均一化を求める、月並みかを称賛するのは、自分の努力がどのような結果に行きつくのか分からないために、その勝負に賭けられないというのが実情なのでしょう。

つまり、そこに努力の結果を見せることがとても重要になってきます。

 

ダイエット効果を目で見て分かるようにした『ライザップの手法』は日本の社会に大きな影響を与えていると思います。食事制限と運動が、ダイエットに効き、それは、自分の努力で変えられることを目で分かるようにしました。

 

それ以前までは、ダイエットは、『体質によるもの』(それはそれであるとは思いますが)という概念が根強く、努力をしても万人に受け入れられるものではないと思われていたし、何よりもパーソナルトレーナーなどつけてダイエットをするなど芸能人以外考えられなかったのが、今では、一般人でも当たり前になりつつあります。それを信じてもらうためにも彼らは、『返金制度』まで設けました

今では、誰でも努力をすれば、痩せられるというのが、社会の常識として受け入れられてきていると思います。

人の目に何を映し出すか? 不確実なことが現実になれば、それは、確率論ではなく、現実として受け入れることができるようになると感じています。

2020.09.30

『しもやけ』と『DX』

私の子供の時に住んでいた神奈川県の相模原市は、神奈川県の湘南・海イメージとは程遠く『さがみっぱら』と呼ばれ『原っぱ』だらけのところでした。冬は、庭のバケツの水が必ず凍っており、地面は霜柱が立っていました。

子供の時は、まったく気にしていませんでしたが、当時の小学生などが履く靴などは、たぶんかなりの安物で、冬場に凍った水たまりなどをバシャバシャ走りまわる私たちは、靴下がすぐにビショビショになったものです。

『足が冷たいなぁ』と思いながらも、そのまま、ほっぽりぱなしにすると足の小指が赤い芋虫のように腫れあがり、かゆくなりました。特に気にしていませんでしたが、それを見た父親が『しもやけだな。しもやけは血行障害だよ。寒くて血の巡りが悪いんだ』と言い、石油ストーブの前で揉んでくれたのを覚えています。最近の暖冬では、『しもやけ』などという言葉は聞きませんし、『使い捨てカイロ』などもあまり使わないような気がします。

昔の寒さがしみる冬は、身体を温める衣類などを渡すのが一つの愛情表現だったように思います。例えば、当時はマフラーや手袋はもちろん、セーターですら買うものではなく、手編みだったように思います。寒さをしのぎ、温かさで身体を包み込むマフラーや手袋は、愛情表現の象徴のようなものでした。

小学生の頃、あまり手袋などを身につけない子供でしたが、母が作ってくれた手袋はたまにはめていたような気がします。残念ながら、すぐに指の先に穴があくのですが、気にしないで、はめていました。

学生時代のバブル期あたりから、手袋やマフラーはお金で買うものとなり、現在では、かなり安価でどこでも買えます。1シーズンの使用程度でも使い捨てにしてしまう場合もあります。そうなるともう愛情媒介の象徴とは言い難いものとなりました。やさしさを媒介する『もの』ではなく、単に安くて便利な『もの』になってしまったのです。

長年にわたり使われたものでも、手作りすることがなくなってきたためか、『もの』に対する愛着という意識が、かなりさびれた感じがします。

日本では、八百万の神という観念があり、生物はもちろん長く使ったものにも『魂』が宿ると言われますが、私の眼鏡もかれこれ20年以上使っており、フレームが壊れかけていて、買い替えようと思っていますが、魂が入っているようには感じていません(笑)

2019年9月30日にスイスのローザンヌで開催された2019年「世界デジタル競争力ランキング(World Digital Competitiveness Ranking)」において、日本の世界デジタル競争力ランキングは、なんと主要63ヵ国中23位と低く、昨年より1ランク落としました。先進諸国の中で、日本のDX順位は最下位クラスと言えるでしょう。

新たな社会が始まり、AIの活用をしなければならないと多くの経営者は危機感を持っているとされています。理系の優秀な人材、特に若い技術者を集めて、AI・DXへの対応していかなければならないとされています。

ただ、『AIやDXを活用していくこと』において、本当に、新人の理系が必要なのでしょうか? 本当に日本のAI技術は、世界から劣っているのでしょうか?常に新しい技術を受け入れなければならないというその考え方が、目的を持たず、終わらないPOCを何度も繰り返している原因ではないでしょうか?

多くの企業にとって『AIを創り出す』必要はありません AIは活用するものです。必要なものは、今、感じている課題を具現化しAIを如何に活用できるようにするかの想像力だけです。

日本人に長けている心を尽くすおもてなしをAI化していくことができれば私は最高だと思っています。繊細さをAI分析しなくて何を分析するのでしょう?無機質な技術をAI化することは、正直あまり意味がないのです。

ビジネスにおいては、効率化を図るべきだと私も思いますが、人間関係においては、心を媒介する『もの』や『サービス』があっても良いかなと思います。

日本の『おもてなしのサービス』は世界一のレベルであると思います。そのちょっとした気遣いをAIで活用していくことで、世界に通用する技術を創り上げられるのであると私は感じています

2020.08.31

今の時代に神を創れるとしたら、どのような神様を創造しますか?

古代から人は信じるものを求めて、多くの神を創りました。
大自然の営みの中から、人の能力を超えたものを神の崇高な意図としました。
日照り、洪水、稲妻、地震などの災害を神のなす業とし、いつ起こるか予想のできない災害に対して神の気まぐれとして受け入れるために神を擬人化して、ストーリーを加え、海や太陽の人の起源までも伝えるようにしました。

神の存在が、今の時代も伝えられるのは、それは神秘的でありながらも、何千年経っても変わらない人の本質への戒めが伝えられているからであると思います。
その時代に生きた人が、時を超えて何世代にわたっても、何か大事なことを伝えたくて、必死に考えた結果、人が神を創り、権現、方便として心の本質を伝えてきたのかもしれません。

もし、仮に今の時代の戒めを次の世代に伝えるとしたら、どのような神を創るのでしょうか?

私は、ほとんどテレビを見ないのですが、テレビを人からは、『毎日、テレビでコロナ、コロナと放送されて頭がおかしくなりそう』と聞くことがあります
コロナ前と現在のテレビの視聴率を比較するサイトがあったので、見てみましたが、やはり、前年同時期と比べて150%の視聴が増加したそうです
https://www.videor.co.jp/press/2020/200616.html
テレビのKPIは、視聴率でしょうから、コロナで視聴率が上がるのであれば、コロナネタ放映をするのは当たり前ではないでしょうか?
また、世論を背に票を獲得する都知事や政治家がなかなか、方向展開できず、逆にそれを後押しするのも当たり前ではないでしょうか?
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/
中小企業を経営している私にとっては、コロナで亡くなる人より、自殺者のほうが身近にいます。未知のウィルスであれば、当然、警戒すべきで対応すべきです。ただ、コロナ毒性は、日本人にはかなり低いものであると既に証明されているのだと思います。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenjisatsu
コロナは誰にも感染する可能性があり、身近なものであると思いますが、大学生がコロナに感染すると犯罪者のような扱いをするのは、なぜなのでしょうか?
今年の大学一年生は、学校に行ったこともない人がいるとお聞きします。

どこのお店に行っても、マスクをして消毒液を用意してくれています。もちろん、私もマスクはしますし消毒液使いますし、家に帰れば手も洗えば、うがいもします。

総理が8月9日の記者会見で、4-6期の経済損失は年換算でリーマンショックを上回るGDP20%減、リーマンの時は失業者が100万人という数字を上げました。自殺者が4万人に迫ろうという数字です。
何か集団で、人を追い込む方向に進んでいるような気がします。
もう、大昔の話でしょうが、オウム真理教という宗教団体がありました。その組織は、自分の小さな集団に人を押し込み、洗脳し、自分の組織を守るためには、人を殺しました。
人は集団の外にいれば、その特異な集団を批判することができますが、自分が狂気の集団の中にいると、自分の姿を気が付かないことがあるのではないかと思います

今の日本の状況は、失業者を増やし、人を追い込み、自殺者を増やしています。
盲目的になり過ぎることは危険です
TVのKPIは、視聴率です
お医者さんのKPIは、人を救うことです

目的を違えてお互いを洗脳しあっていませんか?

信じるものを明確に創り上げることが大事な世の中だと思います。

この時代の戒めを後世に伝えるとしたら、どのような神を創るのでしょうか?

2020.08.04

笑って死ねる人生それさえあればよい

昔、角川の映画で、このような歌詞の歌が主題歌で流れていました。

この歌詞は、戦い疲れた戦士がやっと死ねるという表現の歌詞だったように記憶しています。

子供のころに聞いたその音楽とフレーズは、強く耳に残っていますが、今でも歌えるかな(笑)
笑って死ねる人生があれば、本当にそれでよいと思います。死んでみないと分かりませんが、死ぬ間際に、人は、走馬灯のように自分の過去を振りかえれると聞きます。
その時に自分がどのような生き方をしたのかは、自分で、言い訳なしで見返すことができるでしょう。
その時本当に『笑って死ねるか?』はかなりの疑問です。後悔ばかりが先に立つような気がします。
後悔とは、自分が犯した罪です。
あいつが嫌い、
あいつがおかしいことをした、
と他人に問題の原因を転嫁して生きることはできます。
しかしそのことが、死の間際の走馬灯で自分の後悔の映像を目の当たりにし、それを脳裏に焼き付けながら逝くことに帰結させてるのだと思います。
過去を変えることはできませんが、過去を糧に、前に進むことはできます。
人生の前半は、多くを経験をして、多くの罪も犯しました。後悔の連続です
人生の後半で、やるべきことは、決まっていて、つぐないです
笑って死ねる人生を目指したいです。
2020.07.21

『運が良い人』と『運の悪い人』を見極めることができますか?

かなり前のTVで、田原総一朗さんが、松下幸之助さんへインタビューした回想シーンを観たことがあります。

『どんな人を採用するのか?』という田原さんの質問に対して、松下幸之助さんは

『運のいい人』

と答えたそうです。田原さんは更に、
『そんなことが分かるのですか?』

と質問をすると松下幸之助さんはしっかりと目を見て

『分かる』

と応えたそうです

私はそれを視聴して、『なるほど、運のいい人を採用すればよいのか!』と思い、面接をするときに、『あなたは、ご自分で運がよいと思いますか?』と聞いています。

あまりにもストレートな質問ですが、私には、松下幸之助ほどの慧眼は、ありませんから、聞くのが早いと思って、質問をさせて頂いています。

ただ、困るのは、面接をされる側の人のようで、この予想しない、意図もわかりづらい質問にまともに回答できる人はほとんどいません。
ほとんどの人が迷いを生じた態度になり、素直な心ではない、取ってつけたような回答になります。

100人質問して、自分が『運が良い』と目をキラキラして自信をもって応えられる人は一人もいません。それくらいの確率です。

私は1000人以上の面接をしましたが、正確に『私は運が良い』と応えられたのは、1人だけです。

その女性は『私は本当に運が良いのです』と応えると、聞いてもいないのに、自分の運が良いエピソードをしゃべりだしました

その女性は、東日本大震災に見舞われたときに東北の実家に住んでいました。その大地震の時、家の裏山が崩れて、本当にすぐ近くまで、大量の土砂が流れてきたそうです。

家の庭は大変なことになったそうですが、家は、無傷だったそうです。それを楽しそうに『私は運が良い』と話していました。

彼女は、面接時に自ら説明していましたが、生まれながらの聴覚障碍者で、私の声はほとんど聞き取れず、私の言葉を口の動きで見極めていました。
楽しそうに話す彼女を見て私は、『運の良い人』という質問をしておきながら、正解を教えてもらった気分でした。

それは、『運の良い』と思う人も、『運の悪い』と思う人も、両者とも『思い込み以外』の何物でもないということです。

どうして、その違いが生まれるというと、人生を積極的に考えているか? だけのことです。運が良いと思っている人は、失敗しても、諦めず、さらに多くのことにチャレンジすることでしょう。

運が良いと思っていれば当たり前のことで、チャレンジを続けることは、成功確率が上がることを意味します。

逆に『運が悪い』と思い込んでいる人は、結局、俺ばっか・・・・とあきらめてしまうかもしれません。

私は即座に彼女の入社を決めました

2020.06.25

そして、人は、龍になり、人を守る

鯉の故事Wikipediaから
中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。

竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。栄達するための難関を「登竜門」と呼ぶのも、この故事にもとづく。 初期の鯉のぼりは真鯉(黒い鯉)の一色のみだった。歌川広重の『名所江戸百景』では大きな真鯉一匹が描かれている。

今年のこどもの日は、いったい、どうだったのかが?記憶にもないくらいなので寂しい限りですが、こどもの日に鯉のぼりを家の前で高く空に掲げるのは、この古事からきているといわれています。(諸説あります)

自らの愛する子供を鯉になぞらえて、『のぼり』を上げて、多くの人に見てもらうように表現する意味は?? なんなのでしょう?

古事から読み取れば、鯉の滝登りのように苦難を乗り越えて『立派な竜(龍)になってほしい』という願いがあるということになります。

 立派な龍とは何なのでしょうか?

 私は正確な答えを持ち合わせていませんが、平安時代からあると言われる鯉のぼりの風習と同時代にどのように龍が表現されているか?? をネットなどで見ると、お寺などの境内や建物に多くの彫刻として刻まれていることが分かります。

写真は、2年ほど前に、娘と一緒に行った台湾の龍山寺です。(画像引用:https://www.wbf.co.jp/taiwan/kanko/ryusanji.php
建物は、龍の彫り物だらけで、柱から屋根まで見事な龍が造られ、描かれています

日本にも『龍』の文字がつくお寺はたくさんあります。

 龍はお寺そのものというより、仏教(法)の守り神とされていているそうです

日本でも聖徳太子の17条憲法、第二条は、『篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である』とうたい、その時代、仏教で人の心を導いていました。その仏法を守る人とは、それは、それは尊い人だったのでしょう。

日本の鯉のぼりとは、その龍になってほしい教えであり、龍とは多くの人を救える人になってほしい願いを方便として表現しているのであると思います。

 コロナ渦の中にありますが、科学や医学が進化した今、神の祈りだけではなく、人が人を救える時代です。無駄に怯えたり、批判の心ではなく、一人一人の行動で世界を変えられます。

 今、自分にできることに全力を尽くしたいです

2020.04.16

コロナに勝った後

窮即変、変即通

窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず 『易経』

It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives.
It is the one that is most adaptable to change.
最も強いものでも、最も知的なものでもない。

生き残る種とは、変化に最もよく適応したものである。『チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)』

変化はコントロールできない。できるのは変化の先頭に立つことだけである『P・F ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)』

 現在の環境が絶望的に厳しく、それでも必死になって考え抜いて、生き残り、新たな変化を生み出した企業や人は、次の社会の世界的なリーダーになれるのではないでしょうか?
大事なことは、この状況を絶望的に感じている人だけです。
身体ごと変異できる人は、生命の危機を感じなければならないからです。

aftercorona

News pics 資料参照

 とにかく、沈静化を心から願いますが、大きく変わる世界で今後のことを考えなければならない状況です。
テレワークは常態化するでしょう。会社はもちろん、学校なども大きく変わってきています。
 ただ、コロナで分かったことは、人の関係は希薄化されていないということです。
 このウィルスは、人を媒介として運ばれています。世界中の人がこの短期間でこんなに多くの繋がりを持っているということに驚きます。
私は中国の武漢という都市に行ったことはありませんし、地理的にもまったくの無知でその場所を地図上で指し示すことすらできません。
2020年1月に発生されたとされるそのウィルスには、本当に他人事で、中国から外には出ないものと思っていました。
それが、3月9日イタリア、11日デンマーク、13日ポーランド、14日スペイン、17日フランス・・

とヨーロッパに飛び火。日本では2月28日に北海道で外出自粛要請がでました。

武漢という私は知りもしなかった街の出来事が、数万・数十万?という人を介して、ほんの数か月で既に、いつ私が感染してもおかしくない環境になってしまいました。

 ウィルスには国境が無く、人種の差別もありません。人間であれば平等に対象となってしまいます。
しかも、仮に自分が感染者となった場合、その私のおこないが、多くの人に伝播させてしまう影響を持ちます。それは、また、誰でもが平等に持ち合わせます。
 主体はウィルスで、人はその媒介されるものでしかありませんが、その行動はあっという間に世界に繋げることができることが証明されているような気がします。
人の身体の中に宿ったがん細胞が身体全体を蝕むように、地球上に広がりました。人間も自然界の一部であり、ウィルスを拡散しました。

 この世界的な危機を乗り越える何かがあれば、それは、ウィルスが拡がった以上の速さで、正確で精巧な情報を違う方法で拡散することだと思います。
人は、繋がりの仕方が変わるだけで、人の繋がりそのものが変わることは無いだろうと私は思います。

この繋がりの方法が今後の組織の在り方のキーワードであるような気がしています。

指導者が一つになり、経済的に封鎖するのではなく、より、繋がりがあることを理解し、世界的なリーダーが生まれること期待します。
2020.03.23

占いを信じますか?

みなさまは占いを信じますか?
私は『占いなどは信じない!』と言いたいところですが、そんな現実的な自分とは裏腹に『これから仕事はどうなるのだろうか?』などと聞いてみたい自分がいたりします。
15年くらい前の話ですが、広島に出張した時、お客様と居酒屋で飲んでいて、『二次会どうする?』という話になりました。『若い女の子がいるカラオケに行きますか? それともよく当たる占いのおばちゃんがいるスナックがあるけど、どっちにします?』と地元の人に問われ、私はなぜか、『占い』を選択しました。

そのお店は普通のスナックなのですが、確かに『おばちゃん(申し訳ありません!!)』がいました。
ちょっとした自己紹介を受けて、占いを見てもらいに来たと伝えると、『占いを聞きたいの? いいよ。でも、私はこれで商売しているわけではないから、良いことも悪いこともはっきりいうけど、大丈夫かい?』と問いかけ、始まりました。
『生年月日は?』『生まれた時間は分かる?』『生まれた場所は?』など本格的な質問をされた後、年季がはいった分厚い本を取り出して、ページを開いて、何やら分度器みたいな表に線や文字を書き込みました。
すると、おばちゃんは『これは、大変だね』と一言だけ。そのまま絶句してなかなかしゃべらない。私は〈それだけ???〉と思いながら、『ここまでも結構、苦労したのだけど?』と促してみると、『運命はしょうがないね~』と、にべもない返事。そして、おばちゃんは
『地獄が来るね』とポツリとつぶやいたのでした。
そこまで言われると、続けて質問する気もなくなってしまいました。

おばちゃんは『通常の占い師は、お金をもらっているので、悪いことは、ストレートに伝えないで、回りくどく言葉を選んで伝えるんだよ』『だから、すごくいいこと以外は、あまり信用しないほうがいい』『だいたい、人生は、悪いことのほうが多いに決まっている(笑)
』などと同じことを繰り返しながら、『私は、お金もらってないから。はっきり伝えられるのよ』『あなた、頑張って生きるんだよ』だって(笑)。

その後、私は、ご指摘の通り、地獄行となりました!? その具体的な内容は差し控えますが、地獄は寒くて、暗いところでした(笑)。

【窮すればすなわち変ず 変ずればすなわち通ず】(『易経』)
【生き残る種とは、最も強いものではない。 最も知的なものでもない。 それは、変化に最もよく適応したものである】(ダーウィン『種の起源』)

このような名言もありますが、これは成功者や結果を見極めた研究者の言葉です。実体験を振り返ると、生き残るためにどん底で変化の最中の人にそんなこと言われても何も意味はなく、心に刺さる言葉ではありません。

今もそうですが、毎日が必死で、変化の最中です
いつも窮地に落ちるとそうなのですが、なんとか、『同じ失敗の繰り返しをなんとか回避したい』というのが一心の気持ちです。

占いを信じるかどうかというと、私は信じているほうだと思います。
ただ、占い師の御託宣が合っているかどうかは分かりません。その根拠が分からないですから(笑)。そこがどうも微妙な感覚です(笑)

ただ、私の場合はあの占い師が言う通り『地獄』に遭遇してしまいましたが、そこで諦めず、もがき苦しむ中で見えた出口の先に果たすべき『使命』が待っているようです。
今はその使命に向かって全身全霊で突き進んでいきたいと思います。

2020.02.18

『しもやけ』と『働き方改革』

私が子供の時に住んでいた神奈川県の相模原市は、神奈川県でも大都会のイメージの横浜や爽やかな海のイメージの湘南などからは程遠く『さがみっぱら』と呼ばれるような地域で、その名の通り『原っぱ』だらけのところでした。冬の朝には庭のバケツの水が必ず凍っており、地面には霜柱が立っていました。
子供だった当時はまったく気にしていませんでしたが、その頃小学生が履く靴などは、おそらくかなりの安物で、冬場に凍った水たまりなどをバシャバシャ走り周っていると靴下がすぐにビショビショになっていました。
『足が冷たいなぁ』と思いながらも、そのままほったらかしにしていると、足の小指が赤く芋虫のように腫れあがり、かゆくなりました。それを見た父親が『それはしもやけだな。寒くて血の巡りが悪いんだ』と言って、わたしのかゆくなった足先を石油ストーブの前で揉んでくれたのを覚えています。最近では『しもやけ』になったという話もあまり聞かないような気がします。地球温暖化の影響で、冬がそれほど寒くなくなってきているのかもしれません。
昔は寒さがしみる冬に身体を温かくするマフラーやセーター、手袋などは手編みすることが愛情表現の一つだったような気がします。厳しい寒さをしのぐ暖かい手編みの衣類を身につけると、子供心にも母の愛情を感じたものでした。小学生の頃、母が編んでくれた手袋をはめていた記憶があります。残念ながらすぐに指の先に穴があいてしまうのですが、気にしないでそのままはめていました。
いつの頃からか手袋やマフラーは買うものとなり、現在ではかなり安価でどこでも買えます。1シーズンで使い捨てになってしまう場合もあり、愛情の象徴とは言い難いものとなりました。心を伝える『もの』ではなく、単に安くて便利な『モノ』となってしまったように思います。
長年使われたものでも、愛情のこもった手作りのものではないためか、愛着という言葉はあまり馴染まない感じがします。
日本では八百万の神と言われ、生物はもちろん長く使ったものにも『魂』が宿ると言われてきました。ただ、私ですら、20年以上使ってきた眼鏡のフレームが壊れかけ、買い替えようと思っている私は眼鏡に魂が入っているようには感じていません(笑)
仕事の効率化を図ろうとする「働き方改革」という言葉をよく耳にするようになりました。最近では、ビジネスホテルなどに行くと大変勉強になるのですが、AIコンシェルジュとでも言えるような色々な工夫があり、部屋から何かを尋ねようとフロントに電話する前に、自分のスマホで色々と調べられ、わかるような工夫をされていることが多いです。
ビジネスにおいては積極的に効率化を進めるべきだと私も思いますが、ただ、人間関係においては、心を運ぶ、繋ぐ、伝える、『もの』や『サービス』があっても良いかなと思います。
日本は『おもてなしのサービス』は世界一のレベルであると思いますが、その基本となるちょっとした細やかな気遣いが、効率化の中で省かれていくことは少し残念だなと思います
効率化というと、何か『楽になる』ことを追求することのように思われがちですが、不要に見えるものを省き、時間を節約した結果、大切なものを失う場合もあるということに気が付いたときに、本当の『働き方改革』になると思っています
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